総合のススメ

総合的な学習、楽しく授業してますか?

「困ったな。総合の授業、何しよう…」なんて思っている先生いませんか?
総合こそ、価値ある授業を作り出すチャンスです。先生たちの腕の見せ所ですよ。

いやいや、そんなこと言われても、具体的に何すればいいのか分からないんです、という人もいるかもしれません。一応、指導要領解説を見てみましょう。

探究的な見方・考え方を働かせ,横断的・総合的な学習を行うことを通して,よりよく課題を解決し,自己の生き方を考えていくための資質・能力を次のとおり育成することを目指す。

小学校学習指導要領解説 総合的な学習の時間編(この部分は中学校も同じ)

どういうこと???

という感じですよね。

「よく分からないから指導要領解説をもっとちゃんと読まなきゃ!」と思うかもしれませんが、あの内容をすべて把握なんてできるワケないし、むしろ、読めば読むほどワケがわからなくなります。

でも、安心してください

ワケが分からないのには理由があります。ズバリ「授業の目的が分かっていないこと」です。

まず考えるべきは、「どうやって授業をするか」という具体的な手法ではなく、「生徒たちにどんな学びを得てほしいのか」という根本的な目的です。目的が分かっていないのに、手段に悩むのはナンセンスです。

「紙と鉛筆がある。これを使って何しよう?」と手段から目的を考えるのではなく、「こういう学びにしたい。そのために何が必要かな?」と、先に目的があってこそ、目的に近づくための手段について悩む意味があるのです。

目的を明確にしてから、「その目的に向かうためにはどうやって授業をすればいいのだろう」とたくさん悩みましょう。工夫の仕方は無限にあります。何しろ総合には教科書がありません。つまり自由です。「どんな授業にしようかな♪」って悩むの、ワクワクしませんか?

総合的な学習って、何で始まったの?

そもそも「総合的な学習」の目的って、何なんでしょう?

目的を知るためにまず、なぜ総合的な学習が始まったのか、歴史を知ることが必要です。

子どものころ、テストのための勉強をしながら、「何でこんな役に立たない勉強しなきゃいけないんだろう…」と考えたことありますよね?

本来、勉強は楽しいものです。新しい「知」に出合えるとワクワクします。ところが、いつの間にか勉強はいい大学に入るため」の苦行となりました。そして「たくさん知識を詰め込み、受験のテクニックを習得することが勉強である」という、誤った社会認識が広がります。

1970年代頃から、詰め込み教育への批判と「ゆとり」の必要性が提言され始め、1996年の中教審(中央教育審議会)答申において「生きる力」と「ゆとり」が前面に押し出され、「総合的な学習」の推進が謳われます。

そして2002年~ 総合的な学習が始まります。
教科の枠にとらわれず、自由な発想の授業ができます。イェイ!

ところが、ここで問題が発生してしまいます…

伝言ゲームの悲劇

多くの先生が、「総合的な学習って一体何すればいいんですか?」となってしまったのです。何しろ戦後の逆コース以降、自由な教育実践をする先生たちは弾圧され、文部省・教育委員会の望む教育をする先生が「よい先生」とされてきたのです。今さら「自由にやっていいよ」と言われても、多くの先生たちは困ってしまいました。(組合では今も、自由な教育実践を持ち寄り学び合っています)

そこで教育委員会は現場の先生たちのために研修を行います。

指導要領解説を一生懸命読み込むと、「例えば、国際理解、情報、環境、福祉・健康などの課題について、探求的な学習をするといいんじゃないですか」というようなことが書いてあり、研修でそれが例示されます。

するとそれが現場に降りてきて、伝言ゲームでいつの間にか「国際理解、情報、環境、福祉・健康についての調べ学習をすることが総合的な学習です」となり、年間指導計画が作成されます。

管理職によっては、「年計に書いてある通りにやらないのはおかしい!」と、現場の教員の裁量を認めない人もいます。そもそも若い先生なら、働き始めたとき既に行われていた授業内容を見て、「総合トハ、コウイウモノナノネ」と思ってしまいます。

伝言ゲームの醍醐味は、当初のお題と最後の答えが離れて、トンチンカンな回答になることですよね。

でも、これを教育でやったらどうなるでしょう???

どれだけの人が、一次情報である指導要領(指導要領自体も問題山積ですが…)を読んでいるでしょうか?
文科省通知や中教審答申を読んでいるでしょうか?
総合の時間ができた歴史的経緯を知っているでしょうか?

いやいや、それ以前に教育基本法(1947年版)日本国憲法子どもの権利条約、それらの歴史的背景などを知っているでしょうか?

憲法や子どもの権利条約の理念を知らないまま、指導要領解説の枝葉末節ばかりにこだわって伝言ゲームのような授業をしていたら、トンチンカンな授業になってしまうのは当然の帰結です。

サッカーの目的は「ルールを覚えること」ではないですよね?

「総合の授業、何しよう?」と悩んだときは、手軽な授業例マニュアルを見る(それも否定はしませんが)のではなく、「子どもたちにどんなことを伝えたいのか」とか、「子どもたちのどんな力を伸ばしたいか」といった目的や理念を考えることが大切です。遠回りに思えるかもしれませんが、本当によい授業をするためには、実はそれが一番の近道です。

サッカーに例えてみます。
サッカーのルールも目的もまったく知らない人に、一生懸命オフサイドを教えても仕方ないですよね。サッカーの目的は、みんなで楽しむことであり、そのためにルールがあるのであって、ルールを覚えることが目的ではありません。

授業も、「授業をすること」が目的ではありませんし、「指導要領に合わせること」が目的でもありません。子どもたちの「人格の完成をめざす」ことが目的であり、そのための模範解答はありません。

模範解答がありえない教育に、無理やり模範解答を示そうとしているのが、指導要領であり、それを金科玉条として教委が作成するマニュアルです。サッカーの楽しさを知る前に、ルールブックを覚えさせようとするようなものです。

だからこそ安易に模範解答を求めるのではなく、一人一人の先生が、目の前の子どもたちのために「どうすることが最適なのか」、悩んで、学んで、議論していくことが大切なのです。

急がば回れ。

最近、ある小学校の総合学習の授業を見た。教員は、あらかじめ想定した範囲内に児童の意見を集約し、学習の「めあて」だけでなく、「まとめ」まで唱和させていた。「子ども一人一人で考えが違うはずなのに」。「子どもの個性重視」「主体的に学ぶ」が旗印だったのに、総合学習の多くは画一化、マンネリ化に陥っている。

では、津川教授は小学校教諭の時代、どんな総合学習授業をやっていたのか。

一例として「マンホールの授業」を挙げた。大きなマンホールのふたを見つけた児童が、「みんなに見せたい」と言ってきた。津川教諭は、模造紙にクレヨンでこすり出すことを提案。児童は実践を発表した。すると、新たな疑問が次々と湧いてきた。こんなに大きいのはなぜ? 丸い形に何の意味があるの?

「たった一つの疑問から、授業は始められる。先生が準備しすぎるのではなく、要は子どもの発想をいかに引き出すか」
子ども一人一人が考える裁量をどこまで広げられるか。それが、総合学習の醍醐味なのかもしれない。

西日本新聞 2017年7月25日より抜粋

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