過去の歴史の失敗リスト

「群馬県人権教育人権指針」より11項目の重要課題

①女性
②子どもたち
③高齢者
④障がいのある人たち
⑤同和問題
⑥外国籍の人たち
⑦HIV感染者等の人たち
⑧ハンセン病元患者の人たち
⑨犯罪被害者等
⑩インターネット等による人権侵害
⑪その他の人権問題

「人権教育何しようかな?」と悩んだとき、11の重点項目は目安となりますね。しかし、「人権問題とはこの11の項目です」と意識が矮小化されてしまう危険性もあります。

「強い人が弱い人を支援する」「いじめはしない」というのは人権ではなくモラルの問題です。「すべての人は尊厳を守られる権利があり、不当なことに対して声を上げる権利がある」という、本当の意味での人権意識を育てたいものですね。

ノルウェーの事例紹介
例えば、目の見えない子どもは毎日タクシーで学校に送り迎えしてもらうそうです。しかもその子が不安にならないように必ず同じ運転手さんがつきます。もちろん原資は税金。

日本だったら「ズルイ、逆差別だ!」という声が出そうですが、ノルウェーでは「学校への登下校は、他の子は何の苦労もなくできるよね? それができるようにサポートしているだけであって、それは国の義務でしょ?」という発想なのだそうです。人権意識の成熟を感じます。(元々そういう国だったわけではなく、人々が声を上げ、人権を勝ち取ってきた歴史の上に今があります)

ノルウェーで暮らしている人(結婚して移住した日本人)が、「国に大切にされている気がします」と話していました。そんな風に感じている人、日本にいるでしょうか…

保毛尾田保毛男を知っていますか?

1980~90年代、爆発的な人気を誇ったとんねるずの番組で、「ホモ」という言葉を連発して同性愛者を笑いのネタにする保毛尾田保毛男(ほもおだほもお)というキャラクターがありました。当時の私(委員長・田中)も爆笑しながら見ていて、放送の翌日は友達同士でマネをしてゲラゲラ笑ったものです。(当時の私に「性的少数者の人権」という発想は皆無でした。そしてもし、その時の私に現在の私が注意したとしても、聞く耳を持たないと思います。当時の私には人権を意識するための知識がないからです)

しかし2017年、30年ぶりにかつての人気キャラクター保毛尾田保毛男がテレビに再登場すると、世間は猛烈な批判で迎えました。この30年で性的少数者に対する知識が浸透し、それを揶揄することに対し、多くの人が不快と感じるところまで社会が進歩してきました。

そしてそれは、当事者や支援者が声を上げ、社会的な合意を形成してきたからです。決して自然に差別が減ったわけではありません。声を上げ始めた当初は、相当なバッシングを受けたはずです。そして今も無知に基づき誹謗中傷する人は存在します。

人権課題は過去の歴史の失敗リスト

(憲法学者の木村草太さんが言う「憲法は過去の政治の失敗リスト」という言葉を拝借しました。)

人権課題は過去の失敗リスト、社会の中にあるいじめリストです。前述の保毛尾田保毛男も性的少数者への社会的ないじめです。

私自身もいじめをしたことがあります。そして当時はいじめだと思っていません。いじめやパワハラをしている人は、自分は「正当なことをしている」と思っています。人権の大切さを子どもたちに説いている今になって思えば恥じ入るばかりですが、過去を変えることはできません。

しかし過去の失敗から学ぶことはできます。私たち大人は自分の失敗を「なかったこと」にするのではなく、反省し、失敗リストとして、子どもたちに伝えていくのが仕事だと思います。自分はまるで聖人君子であるかのように、上から目線で道徳を説くだけでは、子どもたちに人権の大切さを伝えることはできません。

大人が子どもより優れている点があるとすれば、多くの失敗を経験してきていることです。人権に関する知識を子どもたちに伝え、同じ失敗をしないように伝えていくことが、人権教育を行う意味だと思います。

いじめの構造の正体

「ダイヤモンド・プリンセス号」の内情を告発して注目を集めた、神戸大学病院感染症内科の岩田健太郎教授がこう言っています。

日本は、基本的に社会の構造そのものが「いじめ社会」なので、たぶん、ほぼ全員が関係者なんです。だから、自分は「いじめに関係ない」って思っている人も、実は関係している。気づいていないだけで。

いじめは構造問題なのですが、その構造を、多くの場合は「仕方がない」と思っているんですね。世の中こんなもんだから、って、みんな言う。で、世の中こんなもんだって受け入れる人が、なんかエライ人、みたいになってしまっているじゃないですか。

日本では常識と言われていること、みんなが「こうしなきゃだめだろ」っていう「規範」みたいなものですが、それがそもそもいじめの構造の正体そのものなんです。その「常識だろ」って言っているものが、じつは「非常識」かもしれない、っていうことに、気がつかない。

今まで「常識」とされてきたことが、実は「いじめ」だったかもしれない。

人権教育を進める上では、そういった視点を教師自身がもつことが大切だと思います。人権についての学びを深めていくほど、そういった場面に出会うことが多くなりますよね。

100年前は戦争が当たり前だった。
50年前は人種差別が当たり前だった。
30年前はLGBT差別が当たり前だった。
10年前はパワハラが当たり前だった。

これらはみんな、過去の私たちの失敗です(まだ解消には至っていません)。こうして失敗リストを増やしていくことで、少しずつ人権意識が前進してきました。私たち自身が人権について学び、そして伝えていくことは、10年後の世の中で「生きづらい」と悩む人を減らすことにつながるはずです。

社会問題は、誰かが声を上げることで初めて社会問題となる

人権に関する知識が普及してきたことで、今までは社会問題とされずに見過ごされてきたものが、実は人権問題だったことに気づかされます。

「LGBTQ」「セクハラ」「パワハラ」など、ここ数年で耳にする機会が増えた言葉がたくさんあります。最近まで耳にしなかったということは、昔の日本では、性的少数者への差別や職場でのセクハラ、パワハラはなかったのでしょうか?

そんなわけがありません。あるのが当たり前すぎて、「理不尽に耐えることが大人になること」と思わされていただけです。

しかし大人のあるべき姿は「理不尽に耐える」ことではなく、誰かの犠牲を当然視する「理不尽な世の中を変える」ことであり、今ある理不尽を「次の世代に引き継がせない」ことです。

そして、こうした社会問題は、誰かが声を上げることで初めて社会問題となります。声を上げなければ、問題は「ないこと」にされてしまいます。すると、その理不尽は「当然のこと」として次の世代にも引き継がれます。

だから人権教育を突き詰めていくと、「おかしいことには『おかしい』と声を上げよう」ということになるはずです。歴史を見れば分かるように、人権は与えられるものではなく、勝ち取るものだからです。

道徳の内容項目では「法やきまりを進んで守り、義務を果たす」と言っています。一方、人権教育を進めていくと「そもそも、その法やきまりが人権を侵害してるかも?」と疑う場面も出てきます。何だか楽しくなってきますね(笑)

私たちが学校で行う人権教育によって、10年後の人権問題を多少なりとも解消できるかもしれません。そう思うとワクワクしてきます。

そして、子どもたちに「おかしいことには『おかしい』と声を上げよう」と言う以上、私たちもおかしいと思うことには「おかしい」と声を上げないと整合性が取れません。

人権教育を進めることで一番成長するのは教師自身かもしれませんね。

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