「こうづけ」の話

西川圭一(元高崎市教組)

しのぶ毛の国 二子塚

卑弥呼は3世紀に実在したのか、それとも書物の中だけの存在なのか。彼女の国は、畿内をまとめるほどの国だったのか、それとも北九州一帯に存在した一豪族だったのか・・・。

いずれにしても「ヤマタイ国」という名は後に登場する「ヤマト王権」という名と酷似した名であることは確かで、その後の天皇を中心とした国作りのはじまりなのかも知れないと考えると興味は尽きない。ただし、卑弥呼の名は中国の歴史書には出てくるものの、我が国の歴史書「記・紀」には一切登場しないというのも大きな謎である。「アマテラスオオミカミ」とどうつながるのだろうか・・・。

さて、話はわが東国へ。畿内にヤマト王権が誕生した頃、我が群馬にも大きな古墳が次々に作られた(これは史実)。ということは当時の中央と我が「けのくに/けぬのくに」は、とっても密接につながっていたのだろう。そう考えないとあの大きな前方後円墳の説明がつかなくなる。

太田の天神山古墳、藤岡の七輿山古墳、前橋の大室古墳群、高崎の八幡山古墳、観音山古墳・・・きりがない。

当時このあたりは、渡来人がいっぱいいた国際的な社会だったのです。
「しのぶ毛の国二子塚」・・・

中央と密接につながった豪族が活躍していた証が古墳であり石碑なのだ。上野三碑の代表格の多胡碑は頭に笠石をのせていますが、これはあきらかに朝鮮半島南部の新羅系の作り方。この地を「こうづけ」と呼ぶようになったのはどうしてなのか。今回はそのお話です。

毛の国ってなんやねん?

中央集権といっても当時の東北にはまだ「蝦夷」と呼ばれ、王権に服属しない国々がありました。王権にとっての東国経営の要となった「けのくにの長」の墓が古墳と考えると、電話や郵便といった通信手段も持たない時代に凄いことだと思います(羊太夫伝説へつながる)。

そして、渡来人が権力者のいた近畿だけでなくこんな辺鄙な地方にまで・・・。つまり、当時の人々にとっては中央も地方もなく豊かな土地はどこも都だったのです。

ところで、「続日本紀」に見られる地名「甘良(かんら)・織裳(おりも)・韓級(からしな)(辛科)」や秩父を背に地続きの埼玉の「高麗(こま)」などなんとエキゾチックなネーミング。そんで、「多胡」ときました。「胡」とは訓読みで「えびす」異国の民の意(胡麻、胡瓜、胡弓、みんな西域からの文物)。「異国の民の多い所」というのが「多胡」なのです。

「胡」は、ここでは半島の人々のこと、先進的な技術・知識をいっぱい伝えてくれました。「養蚕・機織・製鉄・土木に治水・もちろん農耕・仏教・文字・石碑・・・税制」、最近吉井町では、「正倉」の発掘がされ大きな郡衙(行政組織)が見つかりました。

のちに名馬の産地とも言われるようになる群馬ですが、当時は最新の技術に裏付けされた《穀物・米の産地》だったのでしょう。「毛野(けの)」と呼ばれました。「毛」とは穀物の「のげ」のこと、あの麦や米の籾から出ているつんつんしたヤツ。あれが「ケ」だろうと言うのです。穀物の豊かな国「毛野の国」なのです。

エライ人が勝手に決めるのは昔から!?

朝廷の支配が広がりを見せると取りまとめの必要からかこの国を上・下二つに分けることとしました。都に近い方を「上つ毛野の国(かみつけののくに)」、東の方を「下つ毛野の国(しもつけののくに)」へと。(ここでの「つ」は、所属の意を表す格助詞、~の・~にあるの意)これが、「上毛・上州・上野」のはじまりです。

701年大宝律令ができ国の形も整いはじめ、奈良時代に入り元明天皇の時代、713年(和銅6年)には「好字二字令」が出されます。(この話は、またあとで詳しく・・・)

実際はそれ以前からそういった動きが始まっていて、あちこちで国名を無理矢理漢字二文字に変えました。(また、無理矢理です。なんか岸田のようですが・・・)

「上毛野の国」も二字にせよ!という。んじゃぁというんで仕方ない「毛」をとっちゃった。「上野の国」の誕生です。ただし、読み方まではしばられませんで、表記は漢字二文字になっちゃったけど読みは相変わらず「かみつけののくに」と「け」が残りました。当然お隣も「下毛野の国」から「下野の国」へ。

さらに時代が下ると、まず重複する「の」の2字が1音に縮まり「かみつけのくに」に変化。さらに、発音が「かみつけ」から「こうづけ」へと訛ったのです。(旧かなづかいでは、「かうづけ」とも書きますが発音は「こーづけ」です)

群馬の旧国名が難読地名になってしまった原因は、2つ。早くに「毛」がなくなったのに読みには残り、「野」が書いてあるのに読まなくなったのですから・・・。

だから、「こうずけ」じゃやっぱ変ですよねえ、一緒に変遷したお隣は「しもつけ」、元々は兄弟なんですから、「こうづけ」にしてくれませんか?

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