全国学力テストはなぜ失敗したのか
学力調査と学力テストは別物
私たち全群教は全国学テに反対です。
毎年数十億円の税金が投入されること。マニュアルの徹底が教員を圧迫すること。「基礎問題はできるが応用問題は苦手」という、当たり前の調査結果が毎年出てくること。4月に実施したテストが返ってくる7月には、子どもたちはテストをやったことすら忘れていること。無駄な点数競争で不正が行われることなど、反対する理由は枚挙に暇がありません。
私たちは学校現場で、全国学テの「無意味さ」を肌で感じています。この本は、その肌感覚の正しさを論理的に説明してくれます。
日本に欠けているのは、「学力調査と学力テストはまったくの別物」という視点です。日本で行われているのは学力調査という名の、普通の学力テストです。
全国規模で行う普通の学力テスト
全国学テでは、毎年まったく内容の異なるテストが行われています。ですからテストの正答率が上昇しても、学力が上がったためなのか、難易度が変わったためなのか分からないのです。さらに、競争だけが子どもの学力に影響を与えるわけではありません。学力が上がったのは塾に行く子が増えただけかもしれませんし、カリキュラムが変わったためかもしれません。考えうる様々な要因のうち、確かに競争が学力を上げたと主張するには、それ相応の調査設計や分析が求められるのですが、現行の全国学テはそのような要求を満たすことができていません。
現行の学テは、ある一時点の学力しか測っていないため、それがもともと学力の高い学校だったのか、それとも教員の努力が学力を向上させたのか分かりません。
教育政策の立案には、子どもたちの家庭環境に加え、教員の学歴や教育方針と言った情報も必要になるのですが、現行の全国学テはこうした情報もほとんど取得できていません。
悲しいことに、(悉皆実施は)指導の役に立つどころか自治体間・学校間の順位競争や平均正答率競争を引き起こした挙句、教員がテストの結果に過敏に反応せざるを得なくなる状況を作り出すことになりました。
現行の全国学テは全国学力・学習状況調査と名乗ってはいますが、大規模学力調査の方法論をほとんど踏まえておらず、単に教室で実施する学力テストを全国規模でバラまくだけの代物になってしまっています。
『全国学力テストはなぜ失敗したのか』より
調査の役に立たず、実施に非常に手間のかかる普通のテストを全国規模で行い、点数競争や不正を引き起こすという壮大な無駄を毎年何十億円もかけて実施しているのですから、これはもはや喜劇です。
悉皆実施は今すぐ中止を
全国学力テストについては、多くの教育の専門家たちも否定的な見解を示しています。肯定的な専門家を探す方が困難かもしれません。まず批判されたのが学力の定義です。そもそも学力とは曖昧な言葉です。学力とは何かという論争は、現在も続いています。
次に批判が集まっているのが実施方法です。一般的な社会科学の見解に従うなら、学力テストに限らずあらゆる調査において、調査対象となるすべての人を調査する必要はありません。
加えて、悉皆実施をしなければ、教育委員会や学校の正確な平均正答率・順位は分かりませんから、都道府県間の順位競争など起こりようがありません。
学力を測るには、測りたい能力をきちんと定義し、その能力にあった設問を多数作成した上で予備調査を通して吟味し、それを重複テスト分冊法によって配置していく…。こうした複雑な手順を経ることが必要なのです。
また、設問が漏洩することを防ぐために、悉皆実施の学力テストは、まったく同じ日・同じ時間に試験を開始しなければなりません。PISAのように各国の実態を比較することが目的なのであれば、すべての対象を調査するのではなく、必要最小限の対象を調査する方が、適切に実態を把握できる可能性が高まります。
全国学テで採用されている悉皆実施は、コストや精度という面から見て、好ましいことではありません。PISAに倣うのであれば、大規模な学力調査は、まずは抽出調査で考えるべきでしょう。
『全国学力テストはなぜ失敗したのか』より
「悉皆実施には多大なコストがかかる」ということは多くの人が認識していると思います。本当に必要なことであれば、コストがかかってもやるべきです。しかしコストがかかるだけでなく「悉皆で行うと精度が下がる」という指摘が重要です。
この『コスト』には金額だけでなく、教師の精神的苦痛も含まれます。教師にとって長時間労働以上に辛いのが「意味のない仕事をさせられる精神的苦痛」です。これだけ膨大なコストを費やし、わざわざ精度を下げているのです。
全国学テはなぜ始まった?
現行の全国学力テストの出発点には、学力テストによる競争を望む、競争主義と呼ぶべき考え方があります。点数を公表すれば、学校や子どもたちは互いに点数を競い、切磋琢磨するようになり、結果として日本全体の学力も向上していくはずだというのが、競争主義の考え方です。
2000年代の学力低下論争において、競争主義による学力向上を狙う人々は、全国学力テストの復活を強く望みました。04年から05年まで文科大臣を務めた中山成彬氏も、その一人です。中山氏が、テスト結果を公表し、子どもたちの競争意識を高めるべきだと発言したことが、全国学力テストが復活する直接のきっかけになりました。
全国学力テストを正当化するには、教育に関わる人たちも納得する説明が求められます。ここで登場したのが、全国学力テストの結果を一人一人の児童生徒の指導に、さらに個々の教育委員会の施策に役立てるという発想です。
現行の全国学力テストは、PISAに代表される世界の大規模な学力の調査とは、明らかに異なる特徴をもっています。それは、全国学テでは、「学習指導要領の考え方を、教員や教育委員会の関係者がどの程度理解し、教育に活かしているか」が問われているという点です。
『全国学力テストはなぜ失敗したのか』より
つまり一部の政治家が「学力を上げるために点数競争させるべき」と学テ導入を迫ったことに対し、文科省は「さすがに競争のためのテストでは理解が得られないので、調査のためのテストにする。そして、どうせやるなら指導に役立つものする」という方向に舵を切り、今のような形のテストになったのです。
混ぜるな危険!
『指導のためのテスト』と『学力調査(政策立案のための基礎調査)』は、目的がまったく違います。目的も、そのためにとるべき手段も違うものを1つのテストに混ぜてしまった結果、どちらの目的も達成できなくなりました。混ぜてはいけないのです。
「指導のためのテスト」とは、学校の先生が日々の授業で行う、ちょっとした確認テストのことです。子どもたちの知識の定着状況を確認し、その結果を指導に活かすためのテストです。「政策のためのテスト」とは、国が政策立案の基礎資料とするために行うテストのことです。教育政策の立案には子どもたちの学力実態の把握が欠かせません。
「指導のためのテスト」は一人ひとりの結果が分かった方が好ましいため、全員が受験することが基本になります。また、指導の成果を確認するために行っているので、最終的には全員が満点かそれに近い状態になることが理想です。加えてフィードバックのスピードも重要です。指導に活かすテストなのですから、テストの実施から返却までに数カ月もかかるようでは役に立ちません。
『全国学力テストはなぜ失敗したのか』より
今の全国学テが「指導のため」に役立たないことがよく分かります。
「政策のためのテスト」は、日本の子どもたちの学力実態を把握し、政策立案の基礎資料にするために行うものです。このテストは全員が受験する必要はありません。全員が受験するテストは、テストの結果を気にした教師や子どもたちの中に不正を行う人が現れ、結果が歪んでしまう可能性があるからです。政策立案の基礎資料にすることが目的ですから、子どもたちへのフィードバックを考える必要もありません。
何より「指導のためのテスト」とは異なり、「政策のためのテスト」は、全員が満点でない方が好ましいテストです。「指導のためのテスト」では最終的に全員が満点を取ることが望まれます。「政策のためのテスト」では、できる子からできない子までバラついて測定できていることが望まれます。さらに「政策のためのテスト」においては、子どもたちのさまざまな社会的属性指標を調べることも重要です。そうでないと、貧困家庭の子どもの低学力など、重要な政策課題に関わる情報が得られません。
『全国学力テストはなぜ失敗したのか』より
今の全国学テが「政策のため(調査のため)」に役立たないことがよく分かります。
全国学テは、「調査のため」と言いながら、内容的には「指導のため」のテストを行っています。そして悉皆で行うためフィードバックができず、指導の役にも立っていません。そんなテストに毎年、膨大な予算と教員の労働力を浪費しているのです。
過ちを認めることの大切さ
現在の日本には自国の学力実態を把握するための学力調査が存在していません。にもかかわらず、この数十年、日本は学力の低下(あるいは向上)を根拠として教育改革を勧めてきました。これはつまり、この間の教育改革は実態に基づいて行われてきた訳ではなく、関係者の思い込みによって実施されてきたということです。
私がみなさんに知ってほしいことは、大規模な学力調査の設計・分析には専門的な知識が欠かせないという、ある意味で当たり前のことなのです。問題は、入門書に書かれているような定石を無視して、あるいは、そもそも定石さえ知らない人たちが、全国学力テストを設計したという点です。
『全国学力テストはなぜ失敗したのか』より
教育改革が「思い込みによって実施されてきた」ということがまず大きな問題ですが、それ以上に問題なのは「失敗を認めないこと」です。
教育政策だけでなく、万博にせよ、マイナンバーカードにせよ、この国の行政は明らかに問題があると分かっているものでも「エライ人が決めたことは無謬」という前提で物事が進んでいくので、引き返すことができません。世紀の愚策、教員免許更新制の廃止でさえ「発展的解消」と言い繕い、過ちを認めないのです。過ちを認めないのだから、効果的な対策など望みようもありません。
道徳内容項目(小学校3・4年)
過ちは素直に改め、正直に明るい心で生活すること。