私たち教職員にとって「子どもたちの人権」を守ることは何よりも大切であると同時に、一番難しいことでもあります。
なぜ難しいかというと、私たち自身も加害者になる可能性があり、そしてその加害の事実を認めるのが難しいからです。


人権というのは「権力」ととても相性が悪いものです。
各人が所属する社会の中で、相対的に権力の強いものが弱いものをいじめること、これが人権侵害になります。
子どもにとっての身近な権力といえば、 

①子どもたち同士の関係の中で立場が強い者
②親
③学校

ではないでしょうか。

そして今まで学校で行ってきた人権教育はほとんどが①です。
ジャイアンとのび太の関係です。
のび太をいじめるジャイアンに対し「いじめはいけない」という絶対的な命題を、教師という上の立場から指導します。
もちろんそれは重要なことですが、同時に②③にも向き合っていくことが求められます。

そのためにはまず親も学校も、自分たち自身が、子どもたちにとっては逆らうことのできない権力であるという事実を受け入れることが大切です。「そんなことはない!」と否定したくなるかもしれませんが、「大人は正しい。だから子どもは親や先生に従え」という指導では、子どもたちの人権を守ることができません。

大人は時に、威圧によって子どもたちを従わせることがあります。
ただし、それは本当に必要な時子ども他者の人権を侵害した時等)に一時的に行うものでなければならないし、その後、対話によって納得させなければ教育ではありません。

私自身(中の人)も子どものころ、威圧や暴力によって先生に従わされたことがありますが、今でも納得していませんし、その先生のことをまったく尊敬していません。その人は対話で私を納得させることができないから、「先生」という権威を使って服従させ、自分の考えを押し付けてきただけです。

「じゃあ叱らなければいいのか」と言えばそんなこともなく、叱るべきときにきちんと叱らない大人を子どもは信頼しません。

「じゃ、どうすればいいんだよ!!」と思うかもしれませんが、そんなに難しいことではありません。
「一人一人の子どもを個人として尊重すること」と、「大人は子どもにとって権力者であると、大人自身が自覚すること」です。

自分が他者にとって圧力となっていることを自覚しない権力者は、無意識に権力を乱用します。
そのような人を反面教師とすることが、子どもたちの人権を守ることにつながります。

「子どもの権利条約」(日本ユニセフ協会抄訳から抜粋)

第3条 子どもに関係のあることを行うときには、子どもにもっともよいことは何かを第一に考えなければなりません。
第12条 子どもは、自分に関係のあることについて自由に自分の意見を表す権利をもっています。その意見は、子どもの発達に応じて、じゅうぶん考慮されなければなりません。
第29条 教育は、子どもが自分のもっている能力を最大限のばし、人権や平和、環境を守ることなどを学ぶためのものです。
第31条 子どもは、休んだり、遊んだり、文化芸術活動に参加する権利をもっています 。

3条 子どもに関係のあることを行うときには、子どもにもっともよいことは何かを第一に考えなければなりません。

子どもの権利条約第3条、これを胸に刻んでおけば大抵の場合は大丈夫です。
強く叱るときも「本当に子どもため」なのか「自分のイライラをぶつけているだけ」なのか、
一歩立ち止まって考えるだけでも対応が変わってくるはずです。

12条 子どもは、自分に関係のあることについて自由に自分の意見を表す権利をもっています。

そして学校で侵害しがちな子どもの権利が12条です。
自由に発言させれば、当然未熟で身勝手な意見も出てきます。
その場のウケだけを狙った、稚拙な行動をとる子どももいます。
しかしだからといって、結論ありきで子どもの意見を封じてしまったり、意見を出せない雰囲気を作るのは教育と言えるのでしょうか?
それは啓蒙専制君主の手法です。
他者への誹謗中傷でない限り、どんな意見でも言えて、議論できる環境を作ることが大人の責務です。
意見を封じ込めるのではなく、意見を言える環境を整えること。
そして、そこに一理があれば考慮し、それが稚拙で身勝手な意見であれば、教え諭していくのが教育です。

啓蒙専制君主
絶対王政期のヨーロッパで、民衆に一定の人権を付与した王たちの総称。
自分では民衆のよき理解者であると思っているが、人民が自覚的に権利を求めることは許さない。
「好きなだけ、何ごとについてでも議論せよ、ただし服従せよ」という考え。(byカント)

ただし、難しいのが「子どもを尊重する」のと「子どもに迎合する」のは違うということです。
「迎合してはいけない」から「尊重せずに上から押さえつける」という指導は不信感を生み、子どもたちの成長につながりません。
もちろん迎合してワガママ放題させてしまうのも、よくありません。
「迎合はしない」しかし「尊重する」ことが大切です。

29条 教育は、子どもが自分のもっている能力を最大限のばし、人権や平和、環境を守ることなどを学ぶためのものです。

これも大切な条文です。
学校では、道徳教育に象徴されるように、正解の型に子どもたちを当てはめる教育を進めがちです。
しかし本来の教育は、大人が決めた正解に子どもたちを当てはめることではなく、個々の子どもたちがもっている力を伸ばせるようサポートし、一緒に歩んで行くことです。
子どもたちを管理・支配し、自分の思い通りに動かせる人が「力のある教員」などと言われることがありますが、「こどもの権利」という認識があれば、そういった発想は生まれてこないはずです。

31条 子どもは、休んだり、遊んだり、文化芸術活動に参加する権利をもっています 。

子どもに限らず日本では、休んだり、遊んだりすることは「がんばっていない」と見なされ、
常に「がんばっている」ことを求められがちです。
部活が象徴的ですが、がんばらされ過ぎて、怪我をしてしまったり、燃え尽きてしまったりする子どもが少なからずいます。
「がんばる」のはいいことですが、「がんばること」が目的ではないはずです。
子どもたちの将来のために、時には「がんばり過ぎない」ように抑えるのも大人の役目です。

こどもの人権を守るために、大人の意識改革を

こどもの人権を守るためには、大人側の意識改革が必須です。
ある人権NGOによると、日本では6割近くの大人が体罰を容認(2017年、2万人を対象に調査)しており、人権意識の遅れは明らかです。また、「人権は大事」と言いながら、先述した啓蒙専制君主的な価値観で、子どもが忖度して「大人にとっていい子」であるうちは柔和に接していたのに、自覚的に主張を始めると途端に不機嫌になる人もいます。

小学校の隣の施設でゴミが大量に投棄され汚染が広がった。臭いがひどく、落ち着いて勉強もできないし校庭で楽しんで遊ぶこともできない。そう思った生徒が「私たちの学ぶ権利が侵された」と違憲訴訟に訴えた。最高裁はこれを妥当な訴えだと取り上げ、子どもの環境に対する権利を認め、投棄したゴミを回収し、以後の不法投棄をやめるよう判決を下した。

別の小学校では、校長先生が校庭に車を停めたために遊ぶ範囲が狭くなったと子どもたちが訴えた。最高裁の判決は、校庭は子どもたちが好きなだけ遊ぶ場所だと定義し、校長の行為は子どもたちの権利を侵害したとして、校長に車をどかすよう命じた。

コスタリカの事例(国際ジャーナリスト 伊藤千尋氏)

 海外の進んだ事例から学びたいですね。