授業は自分で創る(2017.5.20)

やりたいことをやる

「これで授業しなさい」
「こう授業しなさい」

そう言われると、私は反射的に反発したくなる。授業は、教師のやりたいことを教師のやりたいようにやるのがいい。「やりたいことをやりたいように」と言うと、すごく過激で、『そんな“教育特区”みたいなことを一人一人の教師に与えていいんかい?そりゃ、公教育としてまずいだろ』と言われそうだ。

でもそんな心配はない。教師はみんな良心的だから、実際には指導要領や教科書から大きく外れた内容はなかなかやらないし、多少外れたことをやるときにも、多くの実践を参考にしてやるものだ。勝手気儘・支離滅裂な授業にはならない。大事なことは、授業作りの主体はそれぞれの教師であるべきだということだ。

「教師がやりたいから授業する」そういう授業は、子どもも乗ってくるし楽しんでくれる。それに、よくわかる。『ホント?根拠は?』と言われると、正直困る。でも、経験上(堅く言えば「実践上」)そうなのだ。

指導要領なんて

教科書に書いてない方法で教えることさえなかなかできない(しない)現場だけど、本当は、『何を教えるか』つまり『何を教材として選ぶのか』というところから教師は考えなければならない。

ごみと間違われるような図工の作品、なんとか遊びばかりの小学校低学年の体育、ゲームばかりの英語などなど、教育として意味があるのだろうかと首をひねる授業がある。これらは教科書に書かれていたり教育委員会から指導されたりしているから、「わたしゃやりません」というわけにはいかないのだけれど、『これでいいのか』という問いは教師の中で持ち続けるべきだ。

今話題になっている「特別の教科 道徳」。そこには「内容項目」があり、「正直」だとか「感謝」だとか「国や郷土を愛する態度」などが並んでいる。この項目の内容がどんなものかもていねいに検討されなければならないのだが、私が指摘したいのは、道徳で取り上げる項目の中に「平和」や「民主主義」がないということ。中学校の「国際理解 国際貢献」の項目の中に「平和」の文字があるが、扱いがとても“控えめ”で、本気で平和教育をしようとしているとは思えない。

教科書に何が書かれていて、何が書かれていないか、それを見極め、教師自身が妥当か否かを判断する。実際に授業に反映できなくても、教師にはその姿勢は必要だ。

算数もそうだ。算数教材の内容と配列は、図工や体育などより無批判に受け入れられている。指導要領では、6+7のようなくり上がりのたし算や13-6のようなくり下がりのひき算は1年生で、3×4のようなかけ算は2年生で、18÷6のようなわり算は3年生で、それぞれ教えることになっている。これらついての異論はないだろう。

でも、批判的に、眉に唾して、「ホントにこれでいいの?」という気持ちを持って指導要領を見ると、「こりゃだめだ」という内容も、中には・・・いや、けっこうある。実際、それは指導要領自身が認めていると言ってもいい。最近の指導要領は次のように変遷している。(小学校完全実施の年で分類)

1980年度(昭和55年度) ゆとり 6年間の総授業数:5785時間 算数は1011時間
1992年度(平成4年度) 新学力観 6年間の総授業数:5785時間 算数は1011時間
2002年度(平成14年度) 生きる力 6年間の総授業数:5367時間 算数は 869時間
2011年度(平成23年度) 脱ゆとり 6年間の総授業数:5645時間 算数は1011時間

算数については2002年度版だけ少ない。この時の指導要領は、円周率を「約3」(3.14ではなく)としたり、台形の面積公式がなくなったり、帯分数同士のかけ算わり算がなくなったりしたものである。(マスコミでは円周率や台形の面積公式がよく取り上げられたが、私は、帯分数の乗除がなくなったことの方が問題だと思っている)

それが、2011年度版では、算数の時数は元に戻り、円周率も台形も帯分数の乗除も元に戻った。これは、2002年度版がいろいろまずかったから元に戻したのでしょ。一言で言えば《失敗》。指導要領なんてそんなもん。私はそう思っている。

ついでの余談だが、教育行政に関わっている人は自分たちの非を認めない。文科省の人が「2002年度版の指導要領は失敗でした。ごめんなさい。いろいろ考えたけど、元に戻しますのでよろしく。」とでも言えば、「しょうがない、協力してやるか」とも思えるのだが、そうは言わない。

高崎市も一時期2学期制を入れた。それを3学期制に戻したのだが、その時も教育委員会は「やはり2学期制はだめだった」とは言わない。「2学期制の趣旨を生かした3学期制にする」などと言い逃れをした。
教育行政は上から下まで信用ならない。

授業の進め方にまで

高崎市の教育センター(高崎市は中核市なので、市の教育センターは県のセンターと同じような役割を果たしている)では、「学習過程スタンダード」というものを出している。そして、かなりの学校でこれに沿って校内の授業研究が行われているようだ。

学習過程スタンダードというのは、《課題設定→自力解決→集団解決→まとめ・振り返り》という流れで授業を進めるというものである。それほど目くじらを立てるほどのものではなく、「まあ、これもありかな」と思える授業の流れだ。でも、これに「スタンダード」という名まえをつけられると、私は「そりゃ違うだろ」となる。

「スタンダード」は広辞苑では「標準」。さらに「標準」をひくと「①判断のよりどころ。比較の基準。めあて。めじるし。②あるべきかたち。手本。規格。③いちばん普通のありかた。」とある。とても注意深くことばを選んで「スタンダード」にしたのだろうが、要は、『これが普通で手本だから、よりどころにしてね』ということなのだろう。

でも、授業の進め方なんて、その授業で教えたいことは何か、子どもの実態はどうか、はては、進度はどうかなどで決まってくる。ましてや、授業は「生き物」。「スタンダード」が言うところの自力解決と集団解決を行ったり来たりする授業や、解決していたら新たに課題が設定されたなんてこともある。むしろ、その方が生き生きして子どもが動いている授業だ。「スタンダードな学習過程」というものを設定すること自体が間違っている。

授業の進め方について言えば、「アクティブラーニング」が華やかだ。新指導要領には明文化されなかったので、はしごを外されてアタフタしている人も多いだろうが、アクティブラーニングが消えたわけではない。文科省は、授業内容だけでなく、授業方法にまで手を突っ込もうとしている。

授業の方法について考えるとき、私は教師になって1年目か2年目に言われたことばをいつも思い出す。

『目的が明確であればあるほど、方法は多様化する』
『形式が内容を規定するのではない。内容が形式を規定するのだ』

名言だ。

民間こそ

文部科学省・県教委・市教委・教育センター・指導主事などは「官」。組合、群民研(2019年活動停止)、数学教育協議会(数教協)、作文の会、音楽教育の会、科学教育研究協議会(理科教育)、民族舞踊教育研究会(民舞)などが「民間」。民間の教育研究団体というのは、手弁当でやっている研究会。勤務時間外に、時にはお金を払って教育研究をしている。

民間教育研究が「官」と最も違うところは「自由であること」。「官」は文科省に縛られ、指導要領に縛られ、いかにその縛りを正しく伝えるかが任務となっているように私には感じられる。かつて「物語は主題を理解させることが大切です」と言っていた指導主事が、指導要領が変わったとたんにそれを言わなくなった。その人、情けないやら、恥ずかしいやら、腹立たしいやら。「官」に仕える人は哀れです。

一方、自分で考え、よりよい教材や指導の手立てを見つけていこうとするのが「民間」。だから、その実践の違いは明らかで、民間の実践の方が、子どもが生き生きしてるし、よくわかるし、できるし、見事な表現をするしで、その質の高さは「官」の比ではない。それに、民間でやっている人のことばは、自身の実践に裏付けられているから、胸に落ちるし、やる気を持たせてくれる。指導主事の、おべんちゃらに聞こえる、歯の浮くような褒めことばとは月とすっぽん。雲泥の差。

その民間で学んだ端くれとして

民間教育研究の中で学んできた私の、「私が自分でこれがいいと考えた算数の教材」のいくつかを紹介したい。私の授業や教材が民間教育を背負えるほどの質を持っているかについては心もとない。けれども、さまざまな制約もあり、妥協しなければならないこともあるなか、自分で選んで決めた実践であることは間違いない。

コンパスで書くドラえもんとアンパンマン
垂直と平行を書く雲形三角定規(←こんなことばはありませんが、実物を見ると納得かも)
わり算の筆算 仮商の立て方と筆算の書き方
倍分と約分を説明する分数水槽
知ってると便利な約分の手順(「教材」と言えるか・・・)
「キロキロと‥‥」おもしろがる子もいる補助単位の話(これも「教材」ではないような‥‥)
自信作「異分母分数の加減 計算問題集」

本当は、一つの単元全体をどう創っていくかを考えるのが授業の醍醐味だし教師の創造性が最も発揮される。私にもそうした授業がいくつかある。けれどもそれは大きなリポートになるので今日は紹介しない。上の「教材」だけでも授業と授業を創ることのおもしろさは伝えられると思う。

授業を一人一人の教師の手に取り戻そう(まとめ的に)

私が違和感を覚えたり反発したりすることが、学校では日常的に起きています。

・指導案に校長が手を入れる(私は経験ありませんが‥‥)
・研究授業の指導案を指導主事に見せて“指導”を仰ぐ
・人の指導案で授業する(研究授業の時に予行としてやることが多い)

授業は自分の意志で、自分の責任でやる。その方がいいことがいっぱいある。例えば、
・授業が個性的でおもしろい
・工夫しているのだから、子どもは勉強がわかる
・教師が楽しい
・教師の意気込みが子どもに伝わる。つまり子どもが「先生、がんばってるな」と思ってくれる
・深く考えた授業だから、うまくいかないことがあっても、その理由がよくわかる
つまり、教師の力になる

教師には教材や授業方法をを選ぶ権利がある。もっと言えば教育内容を決める権利もある。そのことを家永三郎氏は生涯をかけて国と闘い、杉本判決という画期的な判例を導いた。

そして、私たちが心しておくべきことは、教師の教育権は主権者である国民から委託されたものであるから、絶えず民主的集団的な検討がなされなければならない、ということだ。教育法的にはこのようになるのだろう。自信を持って工夫した授業をしていい。

しかし、今、創造的な授業をしようと思うと、さまざまなじゃまが入る。はっきりと『こういう授業はダメ』という場合もあるし、それとなく『他の方法も考えた方が・・・』なんていう場合もある。また、『先生のやり方はユニークで・・・』と言われたら、否定されていると思っていい。ユニークは本来、「唯一の、独特の、独自の」という意味だが、最近は「普通じゃない。ちょっとおかしい」というニュアンスで使われているように思う。

こうした足を引っ張る発言が指導主事からなされた場合の対処は簡単で、聞き流せばいい。彼らは行政が決めた方法を伝えるのが仕事なのだし、翌日からは顔を合わさないのだから。校長さんに言われると少しやっかいだ。そして、同じ職場のとりわけ同学年の人から言われるのはかなりやっかいだ。強烈に自己主張してとんがった対立関係になってしまうと職場で浮いてしまう。それは居心地が悪い。

かといって従順に引き下がるのは本意ではない。そんなときは、適度に妥協して、アドバイスを受け入れるようなそぶりもしつつ、ぺろっと舌を出し、やりたいことをこっそりやってしまう。そういうしたたかさも持った方がいい。学年主任の中には、一人一人が個性的な授業してもいい、という考えを持っている人もいる。そういう人にあたったときに思い切り授業をする。そうでないときは猫をかぶっている。そんなしぶとさも持ってほしい。

職場の人よりも気にした方がいいのは保護者だ。たいていの保護者は、非常識な授業でない限り批判はしないものだ。けれども、教科書と離れたことをしていると、そのことを批判的に言ってくる人が時々いる。直接担任に言ってくれればまだしも、管理職や教育委員会に連絡がいくと話は面倒になる。面倒なだけで問題にはならないだろうが、不要な労力を使うことになる。だから避けたいものだ。

教科書にはないやり方で授業するときは、保護者には学級だよりなどで連絡しておいた方がいい。そのときは、多少難しい用語(例えば等分除とか包含除とか内包量とか外延量とか)を使うのがコツ。保護者に「先生は考えて授業をしているんだな」と思ってもらえればいい。それに、本を読んで参考にしたとか、大学の先生が言っていたとか、多くの先生が実践していて優れた実践だと定評があるとか、“権威”を大いに利用し、一人で勝手にやっているのではないということも伝えておくといい。

それと、学習後のテストでいい点を取ってもらうのも大事。教科書と違うことをしてテストの点が悪いと、授業のせいにされてしまう。教科書通りにやって出来が悪いとあきらめてくれるというような感じもあり、それはおかしいのだけれど、実際のところはそうだから、とにかくテストではいい点を取ってもらう。そのためにはテストの前にテスト問題と似た問題を練習しておくのがいい。私はテストを見て、よく似た自作のまとめの練習問題を作り、それをやってからテストをしている。テストの点が100%実力かというと問題はあるだろうが、テストをした時にはその問題を解ける力があったわけで、その時点での子どもの力の反映であることは言えると思う。

保護者に比べて、子どもはどういう授業だったかは無頓着だけれども、子どもにも一応、「今日の授業は教科書のここだよ」と言っておいたほうがいい。教科書を開いて逐一進めていく授業に慣れている子どもは、教科書を離れることに漠然とした不安感を持つかもしれない。ちなみに私の算数は教科書を開けることの方が珍しいのだが、内容の区切りや単元の区切りには、必ず教科書を見て、「このページやったよね」と確認するようにしている。

職場の人や保護者にこのような配慮をしなければならないのは、気疲れもする。けれども今はそれも必要な時代だ。必要悪ならぬ「必要手間」だとあきらめて、その手間もやりつつ、自分の授業を創っていく。そういう教師が増えていってほしいと思う。

教師の“店じまい”が近い私だが、授業を自分で創ることのおもしろさや楽しさを、これからの教育を担う人たちに伝えられればうれしい。

品田 勝(高崎市 2019年退職)

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