憲法、沖縄、50年…

2022年5月15日、沖縄返還50年式典が行われました。

「へぇ、そうなんだ。だから沖縄に関係した番組とかやってたんだね~」というくらいの認識の人が多いのではないでしょうか。本土では、ほとんど沖縄のニュースも取り上げられませんし…

しかし教師たるもの、沖縄の歴史について、子どもたちに少しくらいは語りたいですよね。

沖縄の歴史を辿ってみましょう。

貝塚時代

良いか悪いかは別として、日本の歴史教育は必ず古い時代から始まります。子どもたちが「今年こそがんばるぞ!」と気合が入っている4月に縄文時代と弥生時代の勉強をするので、縄文土器と弥生土器の違いだけはやたら覚えていますよね。

ところで、弥生時代はいつから始まるか分かりますか?

正解は「稲作が伝わり、農耕が主産業になったところから」です。日本全体が一気に弥生時代になったわけではなく、稲作が早く伝わったところは弥生時代となり、まだ狩猟採集が中心の地域は縄文時代が続いていたことになります。「いつ?」と聞いているのに「ところ」で答える意地悪問題です。

そもそも「日本」という概念もないので、当時の人が「俺日本人だけど、この辺まだ稲作伝わってないから縄文時代なんだよねぇ」などと考えていたわけではありません。国家とか国境なんて、人間が頭の中で勝手に作ったものなんですよね。

前置きが長くなりましたが、沖縄に稲作が伝わったのが、本土の歴史でいう「平安時代」のころ。つまりそれまでは縄文時代の生活が続いていたわけで、これを「貝塚時代」とよびます。本土とは違う時間軸で歴史が流れていて面白いですね。

グスク時代/三山時代

農耕がはじまると何が生まれるでしょう?

そう、貧富の格差です。

米や麦は、肉や魚と違って貯蔵できるので「持つ者」と「持たざる者」が生まれ、貧富の差が生まれます。そしてそれは時代の流れとともに身分社会を形作り、それぞれの土地に王が生まれます。これを本土の歴史では「豪族」とよび、沖縄では「按司(あじ)」とよびます。

すると何が起こるでしょう?

そう、戦です。

沖縄というと「なんくるないさぁ~」の平和の島というイメージかもしれませんが、ちゃんと(?)戦もありました。人間の歴史は、別々の場所で同じようなことを繰り返しているのですね。沖縄には「グスク」とよばれる城跡のようなものがたくさんあります。

沖縄本島に北山・中山・南山という3つの国ができて争います。そして中山の尚氏が争いを制し、1429年に琉球王国を打ち立てます。

琉球王国/薩摩侵攻

この琉球の王家、尚氏の話が面白いです。悪政を敷いた王が死に、家臣だった金丸が、周りの人たちから「あなたこそ王にふさわしい」と推されて仕方なく王になります。そして「第二尚氏」を名乗って善政を敷いたことになっていますが、事件の匂いがしますね。歴史は常に勝者によって書かれるものです。

中継貿易で栄えた琉球王国でしたが、1609年薩摩藩の侵攻を受け、支配下に組み込まれました。そして薩摩藩と明(後に清)に両属する形で、何とか独立国としての体裁を保ちました。

この歴史を見ると、「平和に仲良く生きていた琉球の人々を苦しめる薩摩」というイメージが湧くと思います。しかし琉球王国の時代、八重山諸島(石垣島や宮古島など)の人々は琉球王府から搾取され、差別されていました。

八重山から見ると沖縄本島の琉球王府は巨大権力です。弱い八重山を強い琉球がいじめ、その琉球をさらに強い薩摩がいじめる…。差別と人権侵害の連鎖という、人間の歴史の営みが見えてきます。同じ過ちを繰り返さないために、私たちは歴史を学ぶのです。

琉球処分

1879年、明治政府は警察と軍隊を派遣して、琉球藩を沖縄県とします。そして同化政策により、琉球人を日本人化していきます。「同化」と言いながら、沖縄の人は「下」の存在とされ、沖縄言葉を使うと罰せられました。

1903年には「人類館事件」が起こります。明治政府は殖産興業の成果を示すものとして、内国勧業博覧会を行います。その中で、台湾先住民、アイヌ、沖縄人などを、「土人」として展示、見世物にするという人権侵害が行われました。

抗議によって人間の展示は中止されました。しかし中には「沖縄は日本だ。台湾人やアイヌと一緒にするな」という、歪んだ抗議をした人もいたそうです。弱い者たちが夕暮れ、さらに弱い者を叩く…

捨て石作戦

太平洋戦争末期、もはや戦争の帰趨は明らかでした。しかし日本軍は本土決戦のための最後の砦、松代大本営の完成を急ぎ、沖縄で時間稼ぎのための地上戦を行います。これは「捨て石作戦」と呼ばれ、日米双方で約20万人の命が奪われました。そこでは集団自決(強制集団死)など、言語に絶する悲惨な出来事が引き起こされました。

1945年6月23日、沖縄戦での旧日本軍の組織的な戦闘がようやく終わりました。この日は「沖縄慰霊の日」とされています。

屈辱の日

1945年9月2日、日本はポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦は終結。日本は連合国軍の支配下に。

1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約の発効により、日本は主権を取り戻します。しかし、沖縄・奄美諸島・小笠原諸島はアメリカの施政権下に置かれたままであり、沖縄ではこの日を日本に見捨てられた「屈辱の日」とよんでいます。

今、日本にある米軍関連施設の約7割が沖縄に集中していますが、戦後すぐは沖縄ばかりでなく日本中に、群馬県にもありました。(ジラード事件が有名です)

しかし日本が主権を回復し、平和憲法ができたことで、国民が米軍基地反対運動を起こします。多くの米軍基地が返還され、本土の基地は減っていきます。結果的に、沖縄に基地が集中していきました。沖縄の人たちには日本国憲法が適用されず、主権も、人権も、平和も保障されませんでした。またもや、弱い者たちが夕暮れ…です。

カメジロー

そんな沖縄で、日本政府にも、米軍支配にも屈せず戦い続けた人物がいます。瀬長亀次郎です。

1954年、カメジローは逮捕されます。米軍は弁護人をつけることを認めず、カメジローは自ら訴えます。

瀬長の口を封ずることはできるかもしれないが、しいたげられた幾万大衆の口を封ずることはできない!

さらにカメジローは刑務所内で団体交渉を行い、看守の暴力をやめさせるなどの要求を実現しました。非民主的な体制に対して、民主主義を貫いて戦う姿勢、カッコイイです。

カメジローの影響力を恐れた米軍は、彼を宮古島の独房に移送します。その孤独の中でカメジローは何をしていたのか?

勉強です。人権と民主主義を勝ち取るためには知識が必要だからです。話は少し逸れますが、ネルソン・マンデラも刑務所で勉強をしていました。違う時代、違う場所で、民主主義を求める闘士が同じ行動をとっていたと思うと心がアツくなります(涙)

1955年 由美子ちゃん事件

1956年出獄。カメジローは那覇市長となります。すると米軍は那覇市への補助金を止め、銀行に圧力をかけ、水道供給を止めます。なりふり構わぬ妨害工作です。

そんな中、市役所に市民の長蛇の列が。「おばあ、何してるの」と聞くと、「アメリカ―が瀬長市長をいじめるから、税金を納めに来たサー」。おばあもカッコイイです。

1959年 宮森小米軍機墜落事故
1963年 国場君事件
1965年 トレーラー下敷き事故
1970年 コザ事件

1970年、カメジローは国会議員に当選し、佐藤総理と対峙します。1972年の沖縄の日本復帰前にカメジローはこの沖縄返還の真の目的について政府を追及します。「この返還の真の目的は、基地の維持であり、この返還は沖縄県民が望んだものではない。欺瞞である」と。

この沖縄の大地は、再び戦場となることを拒否する。基地となることを拒否する!

1972年5月15日、ついに沖縄は日本に復帰します。政府主催の武道館での式典では佐藤首相が「天皇陛下ばんざーい」。

カメジローはその後20年間国会議員として活動し、2001年に人生の幕を閉じます。米軍と日本政府からの抑圧と戦い続けた人生でした。

日本国憲法

「日本に復帰すれば日本国憲法が適用され、米軍基地がなくなる!」と期待した人もたくさんいました。植民地の民ではなく、日本国民なのだから、日本国憲法が適用されるのが当然です。しかしカメジローの予想通り、米軍基地は残り、人権侵害は続きました。

1995年 沖縄米兵少女暴行事件

この事件に激怒した人々は、「米軍基地は出ていけ!」と怒りの大集会を開き、日米安保体制を揺るがします。そして日米両政府は普天間基地を含む米軍施設11ヶ所を日本に返還する「SACO合意」を結びます。

県民の怒りが日米両政府を動かした!

と思いきや、「普天間基地は返還されるけど、その前に新しい基地を作る」という話になっており、辺野古の海を埋め立てて新基地建設をすることになりました。

2004年 沖国大米軍ヘリ墜落事故
2016年 うるま市強姦殺人事件

沖縄の民意は、普天間基地即時返還、辺野古新基地建設反対です。知事選でも、国政選挙でも、県民投票元山仁士郎さんが命懸けのハンガーストライキを行ったことで実施に至りました)でも示されています。政府は「県外移設は理解が得られない」と言いますが、沖縄の人々も理解して受け入れているわけではなく、どれだけ反対しても、政府が力づくで押し進めているのです。

沖縄でも日本国憲法が適用され、50年が経ちました…

授業で沖縄を語ろう

だいぶ端折ったつもりでしたが、長くなってしまいました。

沖縄の歴史は「差別」と「人権侵害」の歴史です。そしてそれは今も続いていることが分かります。だから授業で沖縄を語りましょう。私たちには、子どもたちに人権の意味を伝えていくのが責任があるのですから。

「沖縄について語れるほど詳しくないので…」という人もいるでしょう。

安心してください。そんなときこそタブレットの出番です。子どもたちと一緒に調べましょう(もちろん下調べなしで授業に臨むのはNGですよ)。こちらの想像を超える気づきを得る子もいます。先生が全部教えてやろうなんて考えるのは傲慢です。先生も子どもたちから学ぶのです。私たちにできるのは、子どもたちに考えるきっかけを作ってあげることです。

なんと、元山仁士郎さんに直接連絡を取って、インタビューをレポートにまとめた生徒がいました。その発想と行動力にビックリです!

結果的に「沖縄の基地問題は許せない!」と怒りに震える子もいるかもしれません。基地問題や人権問題にまったく関心をもたない子もいるかもしれません。そのときは何も感じなくても、10年後にふと思い出し、人権問題について深く考え始める子もいるかもしれません。

考えるのは子どもたち自身です。教育とは、教師の考えを押し付けることではありません。子どもたちが考え、悩み、自分自身を成長させていけるように支援していくことです。模範解答はありません。ただし、「人権」という普遍的な価値だけは忘れてはなりません。

 

6月23日は、沖縄慰霊の日です。

子どもたちに教えるためには、まず自分が学ばなければなりません。事実に基づかないウソを教えてしまわないためには、歴史を調べ、人権を侵害される人々の境遇に思いをはせ、侵害している側の立場や社会状況を知ることなども必要です。(こういうことを深く学ぶためにこそ、教師にはもっと余裕が必要です)

授業をすることで、実は一番学び、成長させてもらっているのは教師の方かもしれませんね。

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