パブコメを送ろう(令和の~)
文科省から「『令和の日本型学校教育』を担う教師の養成・採用・研修等の在り方について(答申素案)」へのパブリックコメントが求められています。下のボタンでパブコメページへ飛び、素案を読んで、どんどんコメントしましょう。
とはいえ、全部読むのは大変です(53ページ)。前半の「総論」部分と「おわりに」を要約しましたので、読んでみてください。そして「こりゃ全部読まなきゃ!」と思った方はぜひ素案自体を読んでみてください。
教師及び教職員集団の理想的な姿
①教師自身が学び続け、子どもの主体的な学びを支援する。
②多様な人材を教育界内外から確保。教師の質を高め、校長のリーダーシップの下、個々の教職員がチームの一員として組織的に取り組む。
③働き方改革、教職の魅力発信、新時代の学びを支える環境整備により、教師を目指すものを増やし、教師自身も誇りをもって働く。
「教師自身が学び続ける」ことに何の異論もありません。でも、教師から学ぶ余裕や時間を奪っているのが学校の異常な働き方です。
「子どもの主体的な学びを支援する」ことに何の異論もありません。でも、主体性を抑圧しているのが日本の学校教育です。
「校長のリーダーシップ」と言えば聞こえはいいですが、中には「チーム学校!」と言って異論を封じ込む独裁的な校長もまだいます。
「教職の魅力発信」は要りません。そんなことしなくても十分魅力的な仕事です。魅力を奪っているのは、誇りをもって働けないほど、時間と裁量を奪われている異常な労働環境です。
子ども達の多様化と社会の変化
特別支援や通級指導、日本語指導が必要な子どもたちの増加、また相対的貧困状態やヤングケアラーも増えており、教師一人一人、そして学校自体が子ども達の多様性を受容できるようになることが必要。
まったくその通りです。だから、そこに時間と気持ちを向けるための余裕をください。
Society5.0の時代、教師や学校は、社会の変化に背を向けるのではなく、前向きに受け止めていくことが必要。国際比較において、日本はICTを活用させている教師の割合が低い。「批判的に考える必要がある課題を与える」「明らかな解決法が存在しない課題を提示する」といった指導実践を行っている教師の割合も低い。
ICTは道具です。使うこと自体を目的として学校に押し付けないよう、教委をしっかり指導してください。子どもたちに「批判的に考える課題」を与える前に、まずは教師自身が文科省や教委に対して批判的思考をもつことが先です。単なる文句ではなく、文科省や教委の言っていることをしっかり理解した上で、その誤謬を追及することが大切です。そうすれば子どもたちにも、自ずと「批判的思考」や「解のない課題」について考えさせることができるようになるはずです。
教師の勤務状況について、一定程度改善状況にあり、働き方改革の成果が着実に出つつあるが、以前として長時間勤務の教職員も多く、取り組みを加速させることが必要。
一定程度改善???
臨時的任用教員の確保ができず、「教師不足」が生じている。原因は、産休・育休取得者数や特別支援学級数の見込み以上の増加等。「教師不足」の解決を図ることが急務。
教師不足の原因は「異常な労働環境」だって、何べん言ったら分かるんですか。
他の会議からの提言・要請
「経済財政運営と改革の基本方針2022」…外部人材の柔軟な確保・活用
「規制改革実施計画」…外部人材の積極活用
「Society5.0の実現に向けた教育・人材育成に関する政策パッケージ」…理数やICT・プログラミングなどの専門家の活用。
「教育未来創造会議」…博士課程修了者やIT人材等の高い資質・能力を有する者への特別免許状授与等。
今までのように、子どもを学校だけの狭い価値観に押し込めておくのは良くないと思います。色々な大人と関われるようにすることにも賛成です。しかし教育を市場化して、儲けの種にしようとする意図が透けて見えます。(もちろん改革を進める人すべてが子どもを儲けの種にしようとしているわけではないのは分かっています。しかし、油断していればあっという間に新自由主義に搦め捕られてしまいます)
教師の養成、免許、採用、研修
教員養成フラッグシップ大学を創設し、新たな社会の到来を見据え、優れた業績や実績を有する他大学や研究機関等と連携し、新しいプログラムを研究・開発するなどして、我が国の教員養成の在り方を変革していく。
何かを言っていそうで、何も言っていない文章です。毒にも薬にもなりません。
教員免許更新制を発展的に解消し、「新たな教師の学びの姿」を実現する体制を構築する。校長及び任命権者に研修計画の策定を義務化。教師の研修履歴を作成し、資質向上に関する指導助言等の仕組みを導入。
まずは「教員免許更新制導入は間違いでした。ごめんなさい」というのが先です。道徳指導要領には「過ちは素直に改め、正直に明るい心で生活すること」と書かれています。
「資質向上に関する指導助言」といいますが、「校長は優れており、指導助言に従うことで教員としての資質が向上する」という前提自体が疑問です。校長によるパワハラ・モラハラ事例は山ほどあります。
主体的に学び続ける教師の姿は、児童生徒にとっても重要なロールモデルである。「令和の日本型学校教育」を実現するためには、子どもたちの学びの転換とともに、教師自身の学び(研修観)の転換を図る必要がある。
主体的に学びたい教師から時間を奪い、マニュアル研修でやる気を奪っている現状を転換し、自主的な学びを保障するなら賛成です。しかし、研修のマニュアル化を更に進めようとする意図しか感じません。
組織のレジリエンスを高めることが重要であり、教職員集団の適度な多様性が必要。教師一人一人が専門性を高めるとともに、学校組織が多様な専門性や背景をもつ人材を取り込んでいくことが重要。管理職のリーダーシップの下、目標の明確化、心理的安全性の確保、教職員の経歴・背景の多様性を考慮したマネジメントが不可欠。
賛成です。問題は「管理職のリーダーシップ」の無謬性を前提としていること。管理職も人間であり、誤った意思決定をすることは当然あるのだから、管理職に対し、批判的かつ建設的に提言できる教職員組合の役割を明記すべきでは?(絶対に書かないでしょうが)
教師が魅力ある仕事として教職志願者に再認識されるとともに、教師が自信と誇りをもって「令和の日本型学校教育」を担うためには、教師でなければできないことに全力投球できる環境を整備することが必要である。
まさにそれです。文科省や教委の仕事は「あれしろ、これしろ」と教師を管理支配することではなく、教師が教師として力を発揮できるよう環境整備することです。管理職の違法な労務管理を厳しく指導し、教師に教師としての仕事をさせてください。
今後、優れた人材の奪い合いが加速していくことが予想される。任命権者は、「選ぶ側」であると同時に「選ばれる側」であることを意識することが必要。
任命権者は、違法な労務管理を正し、教師が力を発揮できる環境を整備してください。小賢しいことをせずとも、まともな労働環境さえ整えば、多くの人が教職を目指します。
産休・育休取得者が増えており、男性の育児休暇取得も奨励されていることから、今後とも産育休の代替による臨時的任用教員の採用ニーズの増加も予想される。
男性も育休をとることで、「ママ目線」をもつことができます。子育てに全責任を負う経験をすると、「5分早く帰るため」に10分間の休み時間も無駄にせず、仕事を必死に片付けているママ先生の気持ちを理解できるはずです。間違っても「産休や育休を取るのは申し訳ない」という空気を作ってはなりません。
そして「臨時教員が必要」ではなく、正規教員の数を増やすことを解決策とすべきです。そのためには先進国最低レベルの教育予算の増額が絶対に必要です。コスタリカのように「軍事費よりも教育費」という国にしていきたいものです。
おわりに
1872年、師範学校が開校され、2022年で150年を迎えた。つまり、計画的な教師の養成が開始されてから150年を迎えたともいえる。この間、教師の養成や免許に関する制度は大きく変化したが、どの時代においても、教師が公教育の要であることには変わりはない。
明治の教育を礼賛する書き方には賛同しかねるが、「どの時代においても、教師が公教育の要であることには変わりはない」というのは正にその通り。
教育の本質は、教師と児童生徒の人格的な触れ合いにあり、知識、技術の伝達とともに、教育を受ける者の人格の完成を目指してその成長を促す営みである。いかなる過程を経て教職に従事することになるかに依らず、教育の直接の担い手である教師には、絶えず研究と人格の修養に努めることが求められる。
これも正にその通り。しかし国は「だから国が教師を指導する」という方向に行きたがります。全群教は「だから教師の自主的な学びを保障しろ」と要求しています。上から押し付けられた「正解」を子どもたちに押し付けることは教育の本質に背くものです。
同時に、教師の使命と職責の重要性にかんがみ、教師が教育活動に専念できるようにするため、その身分が社会的にも制度的にも「尊重され、待遇の適正が期せられること」が規定されている。また、教師自身に不断の研究と修養を求めることとの表裏一体の関係として、国や地方公共団体等に、「養成と研修の充実が図られること」を求めている。
これも正にその通り。人間としての尊厳を保てる労働環境が必須。
近年、教師の長時間勤務の問題や、教員採用選考試験の倍率の低下、「教師不足」などが一体の問題として取り沙汰され、教職全体がいわゆる「ブラックな職業」であるとの印象を持つ学生も少なくない。一方、小中高校生の将来なりたい職業で、教師は引き続き上位に位置している。
「印象」ではありません。「ブラック」であることは事実です。そこを認めない限り、前へは進めません。
子供たちにとって、自分に寄り添ってくれたり、温かく見守ってくれたりした教師に出会い、「自分もこうなりたい」と強く心打たれた経験こそが、次代の教師の育成の第一歩である。そうした意味からも、学校指導・運営体制の効果的な強化・充実や学校における働き方改革を強力に推進するとともに、学校を心理的安全性が確保できる職場にすることが不可欠である。国、地方公共団体、学校関係者が一丸となって取組を進めることを期待する。
文科省の官僚も、中教審の委員も、与党の政治家も、全員が同じ考えと言うことはありません。「教員は国の言うこと聞いてりゃいいんだ」と考える人も、「教員が自主的な教育をできるよう支援するのが国の仕事だ」と考える人もいる中で、相当な苦労をして素案を作ったはずです。その苦労はリスペクトしつつ、私たちも全力で現場からの意見を伝えましょう。何も言わなければ、私たちには「意見がない」とみなされます。
文科省自身が「批判的思考が必要」と言っています。「国のやることは無謬だから意見してはならない」という今までの思い込みを捨て、自立した個人として、おかしいことには「おかしい」と言っていきましょう。