ルソー、学活、ロックンロール!
目次
ルソーを読もう
みなさん、ルソーをご存じですよね。フランス革命に大きな影響を与え、現代民主主義の基礎ともなっている偉大な思想家です。中学校の教科書にも出てくるし、教員採用試験でも覚えたはずです。でも正直、「ルソーの本を読んだ」という人はあまりいないのではないでしょうか?
教採で出題されるということは、「教師ならルソーの本を読んでおくべき」ということでしょう。でも実際には忙しくて本を読む時間すらなかなか取れません。
教師から本を読む時間を奪うのは、教育における最大の悪手です。自己研鑽の時間を奪っておいて、「教師の質を上げるために研修を充実させる(キリッ)」とか言っている文科省、ちょっと何言ってるか分かりません。私たちはもっと怒っていいと思います。いや、もっともっと怒らなければならないと思います。
本を読み、過去の賢人の頭の中を覗き見ることは、私たちがどんな教育を目指すべきかについて、大きな示唆を与えてくれます。ロック、ミル、デューイ、マルクス等々、オススメは多数ありますが、とりあえずはルソーでしょうか。「社会契約論」と「エミール」を今すぐポチッとしましょう。
※それらの思想家の言葉すべてを肯定するつもりはありません。例えばミルは「売春や賭博を禁止すべきではない」と言っていますし、ルソーにも男尊女卑的な部分があります。しかし、読む価値は十分にあります。
とはいえ古典を読むのはしんどい…
そこでオススメなのが「100分de名著 社会契約論(苫野一徳)・エミール(西研)」です。とっつきにくい古典をかみ砕いて説明してくれます。
ルソー、レノン、清志郎
若い頃のルソーは、盗癖や虚言癖があったりと、かなり問題のある人物だったようです。もちろんそれらの行為自体は批判されるべきですが、ルソーの思想の価値を減じるものではありません。
相当に感受性の強い人だったようです。今で言えば発達障害の一種だったのかもしれませんね。だからこそ他の人たちのように「世の中こんなものだ」と不条理を受け入れることができず、「現実がクソなら、不条理な世の中自体を変えてやれ!」という発想に至ったのかもしれません。
絶対王政、そしてカトリックこそが正しいとされていた時代に「王様は裸だ!(比喩です)」「キリスト教は人間が作ったものだ!」と叫んだのだから、さぁ大変。ルソーは亡命せざるを得なくなります。
既存の権威の空虚さを激しく批判する姿はまさしくロックンローラー。ジョン・レノンや忌野清志郎を彷彿とさせます。
社会契約説(何だか 聞いたことありますね)
ホッブズは考えました。「それぞれの人が自由勝手に生きていたら、いつ殺されるか分からない。だからみんなで自由を支配者に譲り渡そう。私たちは王に安全を保障してもらっているのだから、王に従わねばならないのだ」と。
ロックはホッブズを批判します。「いやいや、クソみたいな王にも従わなきゃいけないの? 俺たちに人権を保障しているのは王じゃなく、”神”だ。だから、クソみたいな支配者が俺たちの人権を奪おうとしたら、そんな奴はぶっ倒すべきだ!」と。
天賦人権論
ロックの思想が現在の人権思想の元になっています。「人間には誰しも、生まれながらにして不可侵の人権がある」という考え方で、これを天賦人権論と言います。2012年、自民党改憲草案が出されたとき、片山さつき氏が「天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です」とツイートして話題になりました。
人民主権と一般意志
ルソーもホッブズを批判します。ルソーは「主権は人民にある」と考えます。簡単に言うと、「自分たちのことは、誰かに決められるのではなく、自分たちで決める(=自治)」ということです。まさに民主主義の根本がここにあります。
ルソーは「社会のすべての構成員は、自らと、自らのすべての権利を、共同体の全体に譲渡する」ことを主張します。一見、ホッブズと同じように見えますが、ホッブズの場合は『統治者(王)』に、ルソーは『一般意志』に委ねることを説きます。
『一般意志』って何だ???
『一般意志』とは「みんなの利益になる合意」という概念のことです。この場合の「みんな」とは、多数派のことではなく、文字通り「みんな=全員」です。
みんなが一般意志に自分の自由を委ねることで、「誰かの犠牲の上に誰かの幸せが成り立っている」という社会の不条理がなくなります。「誰一人取り残さない社会の実現」、それが一般意志による支配です。当然それは『理想』あり、『概念』に過ぎず、現実に存在しているものではありません。
ルソーはいいました。わたしたちは、みんなの意志を持ち寄ることで、みんなの利益になる合意を見出し合い、その「一般意志」によって社会を統治しなければならない。
正確には、一般意志は〝見つけ出す〟というより〝つくり出す〟ものといった方がいいかもしれません。一般意志は、どこかにあらかじめ転がっているものではなく、人びとの対話・議論を通して浮かび上がってくるものだからです。
別冊NHK100分de名著 読書の学校 苫野一徳 特別授業『社会契約論』
ルソーは、権利の根源は神から与えられたものではなく、人間同士の合意にもとづく社会契約にあると考えます。そして人民主権の立場を、ロックよりもさらに明確に打ち出すことになるのです。
人間のかわりに法をおき、一般意志に現実的な力をあたえ、それをあらゆる個別意志の行為のうえにおくことだ」。すなわち、強者の命令に従うのではなく、自分たちで決めた法に従うことにこそ自由があるのだ、とルソーは考えるのです。
その法の正当性は「多数が賛成したから」という点にあるのではなく、それが「一般意志である =皆にとっての利益である」という点にある、とルソーはいいます。つまり、いくら多数が賛成したとしても、一部の人に損害を与えるような不公平な法律には正当性はないのです。
NHK100分de名著 西研『エミール』自分のために生き、みんなのために生きる
完全な一般意志の実現は不可能かもしれないが、「みんなで徹底的に話し合うことで(とりあえず現時点における)合意をつくり出し、その合意(≒一般意志)に従うべき」というのがルソーの考えです。みんなで話し合って法を定め、その法に従いましょうということです。
ただし、その法は常に「異議申し立て」に対して開かれていなければなりません。一度決めたことが、一般意志に照らして「誤りである」ことが分かったら、その法自体を改める必要があります(例えば欧州でも、かつては死刑がありましたが、「死刑制度は誤りである」という一般意思にたどり着き、死刑を廃止しています)。これが、民主主義社会の基本である「法の支配」です。
【余談】「法の支配」の対義語が「人の支配」です。一般意志よりも統治者の意思が優先されるホッブズの世界観です。日本の社会はルソーよりもホッブズを目指しているように見えます。
エミール
ルソーは『社会契約論』で、誰もが自由に生き、平和に共存していく社会について説きました。そして、その実現のためには「教育こそが大切」と考え、『エミール』を刊行します。どちらも1762年に刊行されており、いわばこの2冊はセットです。この関係、1947年の日本国憲法と教育基本法に似ています(2006年に教育基本法は改悪されてしまいました…)。
教育論である『エミール』の目的の一つは、「みんなのため」を考えられる人間をどうやって育てるか、ということになります。もっとも、みんなのため、といっても自分を犠牲にして国家に尽くすということではなく、〝自分も含むみんなの利益〟をきちんと考える、ということです。
NHK100分de名著 西研『エミール』自分のために生き、みんなのために生きる
エミールという架空の孤児と家庭教師との関係から、「教育とは何か」という哲学的な問いが物語風に描かれています。
・今ある社会秩序、既存の権威に合わせるための教育は本当の教育ではない。その地位に向くように作られた個人は、その地位を離れるともう何の役にも立たない人間になる。(世襲政治家とか?)
・何でも先回りして子どもを守ってしまうことは、本当に子どものためにはならない。失敗や困難という経験を子どもから奪うことは成長の機会を奪うことになる。
・若者を分別ある人間にするには大人の判断を押し付けるのではなく、彼の判断力を十分鍛えなければならない。
・労働によって所有が生まれること。だからこそ、他人が労働して所有しているものは尊重しなくてはならない。等々
当然、ルソーの考えだけが100%正しいわけではありません。現代の価値観からは外れた部分もあります。しかし、私たち一人一人が「教育とは何か」について考え、話し合うためのきっかけとしては今でも十分活用できます。
私たちには、教委から降りてくるマニュアルを覚えたり、小手先の指導テクニックを学ぶことより、「エミール」のような哲学的な問いを立てることが必要なのではないでしょうか?
ルソー、学活、民主主義
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学活(≒特活)、道徳、総合、どれが一番大事でしょう?
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間違いなく学活(特活)です。
戦争が終わったとき、多くの人が望んだのは「もう2度と戦争を起こさせないこと」です(戦争は自然に「起こる」ものではなく、政府が「起こす」ものです)。
だから日本国憲法では政府を縛り、政府の暴走を許さない国民を育てるために教育基本法が定められました。そして戦後の教育では、自由研究(のちの特活)が教育の中心に据えられました。
※特活(特別活動)とは、学校生活における教科の授業以外の部分です。
敗戦まで、教育とは「人々の思考を停止させ、上の者への服従を教えること」でした。だから戦後はその反省から、自分たちで考え、みんなで話し合って決める『民主主義』の世の中を目指したのです。そのために教育の分野で最も重視されたのが「特活」です。
特活の中でも重要なのが児童会(生徒会)活動と学活(学級活動)です。自分たちの学校生活に関することを自分たちで決め、自分たちで決めたルールに従って行動していくことを学ぶのです。
教師がルールを決め、子どもたちを従わせる方が圧倒的に効率的です。しかし、子どもたちが意見を出し合う中で、子どもたちの中での『一般意志』を作っていくプロセスが大切なのです。
学活で遊ぼう
例えば学活の時間に、クラスでドッジボールをするとします。
「来週の学活、特にやることないなぁ。ドッジボールでもさせとくかなぁ…」、これは教育とは言えません。単なる時間潰しです。
教師は教育のプロとして、意図的に授業を行わなければなりません。
具体的には、意図的に余裕のある時間を生み出した上で、「来週の学活、特にやらなきゃならないことないから自由に使えるんだけど、どうしようか?」と、子どもたちに投げかけます。
そして学級会を開きます。「自分たちのことを自分たちで決める」という経験を積ませるためです。教師は傍観者ではなく、ファシリテーターとなります。
教師は議論をリードするのではなく、脱線したり、声の大きい人が強引に自分の意思を通そうとしたりしないよう、必要に応じて軌道修正します。
最終的には、クラスとして「とりあえずの一般意志」を決めるため、多数決が必要になるかもしれません。(これも事前に、「様々なケースを考えて議論した上で、最後は多数決で一応の決定をする」というルールを決めておきます)
そこで仮にドッジボールに決まったとしても、議論の中で子どもたちは「運動が苦手な子が本当はどう思っているのか」について考えたり、「嫌だと思っている人を我慢させるのではなく、誰もが楽しめるよう独自ルールを作る」などの対応を学びます。
「ドッジボールをすること」が目的ではなく、人権や民主主義を学び取ることが本当の目的なのです。
理念があるから子どもを守れる
Aというクラスでは、担任が時間つぶしにドッジボールをさせていたとします。
Bというクラスでは、民主主義のプロセスを踏んだ上でドッジボールをしていたとします。
傍から見たら、どちらも「学活の時間にドッジボールをして遊んでいる」という事実は変わりません。
もし、頭の固い真面目な管理職に
授業中に遊んでいるなんてありえません。授業中は授業をしなさい!
と怒られたらどうしますか?
何の理念もなく、単なる時間つぶしとしてドッジボールをやらせていた担任は、「あー怒られた。次からはちゃんと授業しなきゃ…」と思い、子どもたちをピシッと座らせ、おりこうさんにするための授業を行うのではないでしょうか。「子どもたちのための授業」ではなく、「エライ人に怒られないための授業」です。
理念をもった上で、民主主義の実践としてやっていた担任は、「校長先生、これは授業としてやっています。『エミール』はもちろん読んでいらっしゃいますよね?」と、授業の意味を伝えることができます。
教育に対しての理念と、その授業をしている明確な根拠をもっていないと、つい「怒られないための授業」になってしまいます。でもそれは教師として正しい姿勢とは言えません。プロとして、知識と自信をもって「子どもたちのため」の授業をしていきたいものです。
余談ですが…
学活(特活)、道徳、総合的な学習、この3つの区別がはっきりついている人は多くないと思います。これらは歴史的に、まったく異なる背景から生まれてきたものです。
①学活
上述の通り「民主主義を学ぶため」に、自由研究という名称で始まり、現在は特活の一部として行っているものです。1947年に制定された教育基本法の柱であり、戦争しない国作りのために一番大事な学びの時間です。担任の腕の見せ所です。
②道徳
戦後の逆コースの中、1958年に「道徳の時間」が設けられました(参考リンク)。事実上の「修身」の復活です。道徳の内容項目には「規則の尊重」「公共の精神」といった既存の権威を追認するもの、もしくは「正直」「感謝」「友情」などの感情的な価値に関するものが多くなっています。
一方、「人権」「平和」「民主主義」といった、抑圧された人々が既存の権威と戦うことで勝ち取ってきた、人類にとっての普遍的な価値については触れられていません。(ルソーも既存の権威と戦った人です)
③総合
逆コース以降、上意下達で画一的な教育を進めてきた結果、受験競争ばかりが過熱し、子どもたちに「自分で考える力が育っていない」ということが問題視されるようになりました(そうなるようにしてきておいて、「問題だ」と騒ぐのも滑稽です)。
そこで1996年ごろから「生きる力」を育てる教育が重要だという議論が始まり、「現場の創意工夫を生かして、自由に授業を創ってよい」という総合的な学習の時間が設けられるようになりました。
しかし、画一的な教育に慣らされてきた教員自身が「自由にやってよいと言われても何をしていいか分からない。総合の時間なんて無駄」と言い出してしまう皮肉な結果を招いています。
学活・道徳・総合、つい並列で同じもののように見てしまいますが、実際にはまったく違うものです。それを知った上で、担任なりの味付けをしていくと、意義のある授業ができると思います。
ルソーを学び、「エライ人に怒られないため」の授業ではなく、「子どもたちのため」の授業を創っていきませんか?
学校はこの民主主義社会の一番の土台でなければならないということを、まずは強調しておきたいと思います。『社会契約論』にもあったように、民主主義の重要性は、教育によって理解を広げていくしかないからです。
社会契約なんていうと大げさに聞こえるかもしれないけど、いいたいことはシンプルです。「お互いを対等な人間としてリスペクトし合う」。それだけをルールとして明示し、相互に確認しようというだけです。
ルソーも『エミール』で次のようにいっています。教育において子どもたちに伝えるべきルールはただ一つ、「すべての人を同じ人間として尊重せよ」である、と。そして子どもたちには、そのような社会こそが「よい社会」であることを教えよと。これはまさに、「社会契約」を教えよということにほかなりません。
別冊NHK100分de名著 読書の学校 苫野一徳 特別授業『社会契約論』