『スラムダンク』から考える部活問題

バスケットはお好きですか?(1巻)

映画『スラムダンク』が大ヒットしています。私(委員長)はドンピシャ世代です。未経験ですがバスケ部顧問もしていました。生徒たちと一緒に練習しているうちにバスケが大好きになりました。

元々『スラムダンク』は大好きです。全巻もっています。もちろん映画も見に行きました。予想を超える素晴らしさ、かつ原作ファンも裏切らない展開で、最高のエンターテインメントでした。しかし…

野暮は言わずにエンタメとして楽しめばよい…とは思うものの、どうしても現実の部活問題と合わせて考えてしまいます。「そういう捉え方もあるのか」と思いながら、読み流していただければ幸いです。

お前とバスケやるの息苦しいよ…(30巻)

自分は手抜き。必死に練習する赤木を揶揄する先輩部員。すごくイヤ~な奴として描かれています。しかし彼は本当に、イヤ~な悪い奴なのでしょうか?

彼も、元々は好きでバスケ部に入ったはずです。最初はマイケル・ジョーダンみたいになれると思ったのかもしれません。でもやってみたら甘くはなかった。「すべてを部活に捧げる」という思いにはなれなかった。現実には、そういう生徒はたくさんいます。

もちろん一生懸命がんばることは素晴らしいです。しかしマンガでは、一生懸命がんばれない生徒を悪者にして排除することが正論のように描かれています。一生懸命がんばれない生徒が部活をほどほどに楽しむことは許されないのでしょうか?

エンタメに目くじらを立てるのは野暮です。しかし、勝つこと、自分のすべてを一つのことに捧げることばかりが美化されてしまう、この価値観が現実の部活にも影響を与えることが心配です。

頑張る生徒の力を最大限に伸ばした安西先生は「指導者」としては成功だったのかもしれませんが、頑張れない生徒を排除するような空気を放置したことは、「教育者」として失敗だったのではないかと、映画を見ながら考えていました。

とはいえ、一生懸命やっている人がダラダラしている人に対して「ちゃんとやれ!」と思う気持ちも分かります。大会である以上、勝つために最善を尽くす指導者の気持ちも分かります。しかし…

それは「教育なのか?」
それとも「競技なのか?」

「教育」という建前をとりながら、実際には「競技」として行われ、学生スポーツがエンタメとして消費される日本の文化そのものに疑問を抱いてしまいます。

この天才がヤスにも劣ると・・・?(23巻)

主人公の桜木が交代させられたときのセリフです。ギャグマンガですから笑うシーンです。

しかし現実の部活では、似たような笑えない現実がよくあります。レギュラーメンバーが固定化され、主力の生徒がサブの生徒を下に見てしまうのです。

もちろん顧問の先生たちは、なるべくそうならないよう工夫しているとは思いますが、勝つためには、どうしてもメンバーは固定化していきます。それに、一生懸命やっている生徒を出してあげたいと考えるのが人情です。でもそれによってレギュラーメンバーはますます一生懸命になり、サブメンバーはますます部活がつまらなくなっていきます。

『スラムダンク』には、クサっているサブメンバーは出てきませんが、監督の眼中にないメンバーや、ベンチに入れない強豪校の2軍選手たちが単なる背景のように登場しています。

「エンタメとしての競技」ならそれでもいいでしょう。しかし「人格の完成を目指す教育」として考えるなら、その他大勢の生徒たちが「いてもいなくても同じ」であってはなりません。一人一人に人格があり、尊厳があり、人生があります。すべての生徒が個人として尊重されなければなりません。しかし現在の、勝利至上主義の部活の中でそれを実現することは非常に困難です。

オレは今なんだよ!!(31巻)

試合中にケガをした桜木。ベンチに下げようとする安西先生に、「オレの栄光時代は今だ」と言って、ケガをおして試合に出るシーンです。心が湧き立ちます!

が、チームの勝利や一時の達成感のために自分の体を危険にさらすことは美談なのでしょうか。「部活は教育の一環」と言いますが、ケガをおして勝利を目指す姿を美談としてしまうのは教育なのでしょうか。

桜木は高1ですから15~16歳です。その時は「今」が一番大事だと思っていても、実際にはそこからの人生の方がはるかに長いものです。だからこそ大人が止めなければならないはずですが、大会の高揚感の中では、監督も簡単に「主力選手をベンチに下げる」という決断はできません。しかしそれで万一のことがあったとしても、誰もその子の人生の責任はとれません。

日本では、学生時代がスポーツ人生のピークである人がほとんどです。社会人になれば仕事に追われ、スポーツに真剣に取り組む余裕はありません。

学生時代は自分のすべてを部活に捧げる。
社会人になったら人生のすべてを仕事に捧げる。
大人になったらスポーツはできないから、学生時代の「今」にすべてをかける。

本来スポーツは人生を豊かにしてくれるものなのに、日本の場合は悲壮感すら漂います。労働時間を短くし、誰もが一生スポーツを楽しめるような社会にしていきたいものです。

あの人は ただの顧問の先生だ(10巻)

バスケを指導できる先生がいないため、素人の先生が顧問をしている高校が登場します。しかも、全国大会に出るような強豪校です。マンガは生徒目線で描かれているので、「ちゃんとした指導者がいなくて選手たちがかわいそう」という描写です。

しかし部活問題を知ってから見ると、何も分からないのに顧問にさせられ、放課後も土日も部活に人生を捧げているのに「あんな人じゃダメ」と言われる先生の方に感情移入してしまいます。私自身も何も分からないまま顧問をあてがわれ、審判としてジャッジを罵倒され、監督として采配にダメ出しされた過去を思い出します。

指導要領によれば、部活は生徒たちの自主的・自発的な活動であり、自分たちで考え、工夫し、自治能力を高めていく課外活動です。つまり、顧問というのは本来、生徒たちが自治活動を行う中での相談役であり、指導者ではありません。指導要領通りに捉えれば、「あの人は ただの顧問の先生だ」というのが、正しい顧問の在り方だといえるわけです。

しかし当然、しっかり指導した方がチームは強くなります。そして、勝たせた指導者は「指導力がある」と評価され、感謝されます。指導要領通りに、生徒たちの自主的・自発的な活動を見守る「ただの顧問の先生」は周囲から軽く扱われます。

自分の指導によってチームがどんどん良くなっていく姿を見るのは達成感があるものです。『スラムダンク』に出てくる多くの指導者たちも、嫌々指導しているわけではなく、才能を伸ばし、チームを強くすることが人生のモチベーションになっています。

部活の過熱が社会問題になっていますが、そもそも過熱が避けられない構造になっているのが分かります。部活は教師にとっても、楽しく、達成感があるのです。そして異動があれば、次の顧問はその過熱した状態を引き継がなければならないので必死に頑張ります。そして必死で頑張るうちに自分自身も楽しくなってきます。「もっと強くするために」と、専門書を買い、指導者講習会に参加し、さらに過熱していきます。

部活の最大の問題は「楽しい」ことなのかもしれません。

大好きです 今度は嘘じゃないっす(30巻)

スポーツも文化活動も人間の生活を豊かにしてくれるものです。子ども時代に、それらの活動に気軽に触れることができる日本独特の部活という仕組みは非常に素晴らしい部分があると思います。

しかし勝利至上主義をよしとし、学生スポーツをエンタメとして消費する文化は変えていくべき時期なのではないでしょうか。

部活が好きな生徒は多いです。
でも、部活が休みになると喜びます。

部活が好きな教師は多いです。
でも、部活で疲弊しています。

部活をやりたいか、やりたくないかに関わらず、今のシステムに問題があることに異論はないと思います。子どもたちの部活を大人が娯楽として消費し、教師たちの善意と時間を違法に搾取して成り立つ今の在り方は不健全です。「そもそも部活とは何か」を真剣に考え、議論し、本当に子どもたちのためになる在り方を考えていくべきではないでしょうか。

「部活が大好きです 今度は嘘じゃないっす」と言うために。

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