ブカツの疑問④

部活と生徒の人権(2)

3つの観点から考えてみます

①部活と顧問のミスマッチ(前回:部活のギモン③
②無償であることの問題点(今回)
③教員も生徒も、世界が学校だけになる (次回)

全群教は、部活顧問の強制を批判しています。
懸命に部活指導をしている先生方を批判する意図はありません。
部活推進派 vs 部活反対派 といった感情的な対立にせず、
部活問題を解決に近づける努力をしていきたいと考えています。

②無償であることの問題点

無償であるがゆえに、顧問は「やってやっている」という感覚に陥りやすいことが問題です。
「ぜひ部活をもちたい!」と思っていない先生にしてみれば、いい加減に取り組んでいる生徒を見ると、「こっちは自分の時間を犠牲にして無償でやっているのに、何でダラダラやってるんだ!」という気持ちになりがちです。中には、パワハラ的な指導をする人も出てきます。
あるいは先輩教師を真似て「強く指導しなければいけない」と、真面目さゆえにパワハラ的な指導をしてしまう人もいます。最悪の結果として、体罰や指導死が起こり得ます。

もちろん、素晴らしい指導で生徒たちと信頼関係を築いている先生もたくさんいます。
我々が批判しているのは個々の先生ではなく、あくまでも矛盾した仕組みです。

すべての生徒が部活に全力を注いでいるわけではありません。考えてみれば、そもそも部活は生徒の「自主的、自発的」な活動なのだから当然です。しかし無償で、自分の時間を犠牲にして付き合っている顧問からすれば、「わざわざやってやっているのにふざけるな」という気持ちにもなります。

もし有償で請け負っていれば、それは「仕事」になります。
仕事には責任が伴います。

例えば、お金をもらってピアノを教えているピアノ講師には、技術指導をする責任があります。きちんと教えもせずに、「何でこんなことができないんだ!」と恫喝するピアノ講師はいません。そんなピアノ教室なら、文句を言うか、即やめるはずです。

ところが部活は、その競技をしたければ、例えパワハラ顧問であっても、そこでやるしかありません。中には「あの先生に教わりたい」と、転校する生徒もいます。「学校は学校」「部活は部活」と明確に切り離されていれば、そんな本末転倒な状態も防げます。

部活は先生たちの無償奉仕で成り立っています。これが一番の問題です。
校長は先生たちに部活顧問を(事実上)「強制的にお願い」しています。(法的に「命令」できないので、脱法的に「お願い」という形式をとっています。「強制的にお願い」という時点で、日本語として破綻しています)

お願いしている無償奉仕ですから校長は顧問に、「もっとやれ」とは言えません。逆に、やり過ぎている人に「やるな」とも言いにくいため、結果として部活は過熱しやすくなります。

公立学校の教員には異動があります。当然、異動は教科の配置で決まるので、今まで熱心に指導していた部活顧問がいなくなり、そこに素人顧問があてがわれることは日常茶飯事です。すると、「前の顧問はやってくれたのに…」という不満が出てきます。

教員の無償奉仕に頼っている以上、「部活で質の高い指導を受けたい」という要望には無理があります。指導要領通りの「生徒の自主的、自発的な」活動を見守るだけなら可能かもしれませんが、現状の部活を教員の無償奉仕によって維持していくのは、もはや不可能です。※20年前より、各競技のレベル自体も上がっていて、素人による指導はもう限界を超えています。

また、無償であるがゆえに、活動時間が伸びていきます。
誤解を恐れずに言えば、部活には依存性があります。
もう少し練習すれば、もっとよくなる。
ここを直せば、もっとよくなる。
これをやるためには朝練もしたい。
練習時間が足りないから延長したい。

そしてやればやるほど生徒たちの成長を実感できます。
生徒たちが成長する姿を見るのは嬉しく、楽しいものです。
生徒たちはグングン伸びていきます。
だから、もっともっとやってあげたい。
仕事として、時間で契約しているワケではありません。
奉仕として、勤務時間外にやっているので際限がないのです。
教員はお金のためにやっているわけではありません。
使用者側も残業代を出す必要がないので抑制する理由がありません。

やればやるほど成長し、生徒も顧問も達成感を得られます。
保護者も嬉しいし、大会の好成績で学校も盛り上がります。

しかし…

「部活をがんばることは絶対的な善である」という価値観の下、「部活によって苦しんでいる生徒もいる」という事実が見過ごされてきた現実があります。

  • 濃密すぎる人間関係で、頻繁にトラブルが起こる。
  • クローズドな関係で、謎ルールやヒエラルキーが形成されやすい。
  • 勝利が目的となり、試合に出してもらえない。
  • ほどほどに楽しみたいだけなのに、長時間拘束される。
  • 過剰な練習でケガが絶えない。
  • 辞めたいのに、辞めさせてもらえない。
  • 「好きだから」ではなく、「怒られたくないから」練習している。
  • その競技を嫌いになってしまう。
  • 「部活を休んで家族旅行に行ってはいけない」と思ってしまう。
  • 部活以外の色々な可能性にチャレンジする機会を失っている。
  • 勉強時間が取れない。  等々

「自主的、自発的な活動」で楽しいはずの部活なのに、「がんばること、勝つことが善」とされ、「がんばらないこと、負けることが悪」になってしまいました。確かに、「がんばること」は素晴らしいです。「がんばること」によってしか得られない達成感を生徒たちに感じさせたい気持ちもよく分かります。

でも「がんばらない人」や「がんばれない人」も、同等に大切にされなければならないはずです。だって、「自主的、自発的な活動」なんですから。しかし、「がんばらない人」や「がんばれない人」を基準にすれば、「がんばる人」は不完全燃焼となり、不満がたまってしまいます。

勝利そのものではなく、「学習意欲の向上や責任感、連帯感の涵養等」を目的とする部活の本来の主旨から言えば、「がんばらない人」や「がんばれない人」を基準として、勝利のために「がんばる人」は不完全燃焼でも我慢してもらうのが筋です。しかし、一生懸命指導すればするほど、どうしても「がんばる人」が基準になります。大会に出るとなれば当然そうなります。負けるために大会に出る人はいないのですから。
大会での勝利を目指して、もっともっとと、がんばればがんばるほど、部活の本来の主旨からは離れていくというジレンマがあります。非常に難しい問題です。

今回は「部活が無償であることで生まれる問題点」について考えました。
さまざまなご意見はあるでしょうが、「部活が生徒の人権を侵害してしまうこともある」のは事実です。

「生徒のために、もっと部活をやるべき」という、今まで絶対善とされてきた価値観ではなく、「これまでのやり方で部活を続けていくことは、本当に生徒のためになっているのか?」という視点からも考え、議論することが必要な時期に来ているのではないでしょうか。

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