ブカツの疑問③

部活 と 生徒の人権 (1)

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部活のギモン②で論じたように、労働問題として見れば、教職員に「部活顧問を強制できない」ことは明らかです。
しかし現実としては、「生徒の気持ちを考えるべき」「あなたが断れば、他の先生にしわ寄せが行く」といった感情論によって、事実上の強制が行われています。

今回は、「生徒のため」と言いながら、教員に部活顧問を強制することは、「結果的に生徒の人権を侵害しているのではないか」という観点から考えてみたいと思います。

全群教は、部活顧問の強制を批判しています。
懸命に部活指導をしている先生方を批判する意図はありません。
部活推進派 vs 部活反対派 といった感情的な対立にせず、
部活問題を解決に近づける努力をしていきたいと考えています。

3つの観点から考えてみます

①部活と顧問のミスマッチ(今回)
②無償であることの問題点
③教員も生徒も、世界が学校だけになる

①部活と顧問のミスマッチ

教員の配置は「教科」のバランスで決まります。「部活」を中心に決まるわけではありません。
授業は教育課程内、部活は教育課程外ですから当然です。
しかし有無を言わさず、部活顧問も割り当てられます。すると、やったこともない競技の顧問になる先生が必ず出ます。

教員側の労働問題は一旦脇に置くとして、子どもの側から見ると、技術指導や戦術指導は期待できないというデメリットがあります。素人が一生懸命やろうとした結果、生半可な知識で間違った指導をしてしまうこともあります。ひどい場合には、技術指導で納得させられないので、威圧や暴言によって従わせることもあります。

逆に、生徒が素人顧問を軽く見ることもあります。そして部活中だけでなく、授業中もその教員を見くびるようになります。どちらにしても、生徒の人間的成長にとってマイナスです。

もちろん、未経験の競技を一生懸命頑張る教員の姿を見せることで、子どもたちの成長にプラスの影響を及ぼすこともあります。しかしそのためには、膨大な時間を部活のために割くことが必須であり、結果的に授業の準備など、部活以外の本来の仕事に充てる時間を削ることになります。これは生徒たちが、よりよい授業を受ける機会を阻害することにつながります。

また逆に、得意な競技の顧問になったことで、過熱してしまうこともあります。「生徒の自主的、自発的な参加」による活動であるはずの部活が、顧問主体となってしまう問題です。

これはとても難しい問題です。
顧問主体でやった方が結果は出やすいし、それが生徒を成長させることもあります。少なくとも、生徒だけで自主的に活動している学校が、顧問が主体となって指導している学校に勝つことは難しいでしょう。

部活の目的は「勝つこと」ではないはずですが、負けるために練習する人はいません。勝てば嬉しいし、指導力のある顧問は生徒や保護者からの信頼も得ることができます。しかし、「勝つこと」を求めると、技能に劣る生徒はなかなか試合に出られません。技能の高い生徒が、技能の劣る生徒を見下し、ヒエラルキーが生まれやすくなります。

本当は「自主的、自発的」に参加して、楽しむための部活だったはずなのに、「勝つこと」が優先されるようになり、苦痛に感じる生徒もいます。いつのまにか部活は「義務」となり、嘘をついて練習をサボる生徒もでてきます。それを見て、「あいつズルイ、サボってる!」と責める生徒も生まれます。それじゃ、一体誰のためにやっているのか分かりませんね。

本当に「自主的、自発的」にやっているなら、「ズルイ」という発想は出てこないはずです。自分が本当に好きなことを自主的にやっているとき、他人がそれをしないからといって「ズルイ」とは思わないですよね。

そして根本的な問題として、「顧問」の意味は「相談をうけて意見を述べる役目の人」であり、「指導者」ではありません。
「生徒の自主的、自発的な活動」であるはずの部活を顧問主体で行ってしまうと、本来的な部活動の意味からは離れてしまいます。「同好の者が集まって、自治的に活動する中で、人間的に成長していく」ことを目的としていたはずの部活が、顧問主体に行われることで、生徒たちの成長の機会を奪ってしまっているとも言えるのです。

指導要領通り、「生徒主体」で部活をやる方が生徒のためになるのか、現状通り「顧問主体」で部活をやる方が生徒のためになるのか、ここは意見の分かれるところだと思うので、今後の議論が必要かもしれません。

ただ、「顧問主体」の部活動は明らかに本来の主旨からは逸脱していますし、部活と顧問のミスマッチが起こらざるをえないやり方であることは確かです。

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