部活と賠償責任について考える

那須雪崩事故から考える

登山講習会中だった大田原高山岳部の生徒7人と教諭1人が死亡した雪崩事故を巡り、5遺族が県や県高体連、講習会の責任者だった教諭ら3人に損害賠償を求めた訴訟で、県と県高体連は、計約2億9千万円の賠償を命じた宇都宮地裁判決について控訴しない方針を表明した。遺族側も控訴しない考えで、地裁判決が確定する見通しとなった。

阿久澤県教育長は「3教諭の過失で県が賠償責任を負うとされた判断を重く受け止める」と述べた。

地裁判決は県と県高体連の過失を認め賠償を命じた一方、教諭ら3人については国家賠償法の規定に基づき請求を棄却した。

2023年6月30日 下野新聞より抜粋

要約すると「遺族が教諭個人にも賠償を求めたが、国賠法が適用されて個人への賠償責任は発生しなかった」という内容です。

国賠法は「公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する」という法律です。国賠法が適用されているのですから、「部活は職務」ということになります。

すると、「部活を職務として命じることができるのか?」という疑問が湧きます。

週の勤務時間は38時間45分ですから、部活を職務として命じればに抵触します。それにそもそも部活は限定4項目に該当しないのだから、「職務として命じてはならない」と考えるのが自然です。

阿久澤教育長は会見で「教諭の過失で県が賠償責任を負う」と言っています。「命令はしていないが、教員が勝手にやって過失を犯してしまった。責任は教員にあるが、賠償は県が行う」という理屈でしょう。確かに法的にはそうなるのでしょうが、モヤモヤ感が残ります。

部活は教員が勝手にやっているのでしょうか?

中高の教員は、4月に部活顧問として名前を入れられ、当たり前のように部活優先の1年が始まります。この「事実上の命令・強制」という歪んだ仕組みにメスを入れない限り、同じような悲劇が起こるのではないでしょうか。

仮に、登山に素晴らしい教育効果があったとしても、部活で命を懸けてまでやるべきものではありません。部活の設置責任者は校長ですから、「安全性を担保できない」として、設置を認めない権限もあります。もし山岳部の顧問をしたい先生がおらず、強制したのであれば、責任は顧問ではなく校長にあるはずです。

ずっと続いてきたものなので、現在の校長だけに責任があるわけではないかもしれません。しかしどこかのタイミングで校長が腹を決めない限り、こういった事故はまた起こります。教員個人が「私は命の責任を負えないので顧問を引き受けません」と断っても、他の誰かに押し付け続ければ、その部は存続していくからです。

滑川市過労死判決から考える

亡くなったのは7年前。女子ソフトテニス部の顧問を務め、土日は部活動の遠征や指導で休める日はほぼなかった。倒れる3日前から頭痛を訴えていたが、三者面談が予定され、「絶対に休めない」と話していたという。自宅で倒れ、くも膜下出血と診断されて亡くなった。

市側は「部活動の指導は教員の自由裁量」などと反論し、賠償責任はないとの立場だ。

2023年6月26日 毎日新聞より抜粋

市教委側は「勝手に過労死したのだから、自治体・教委・学校に責任はない」というスタンスです。今までもずっとそうでした。当たり前のように部活を押し付けておいて、過労死すれば自己責任。今回は遺族が訴えたためニュースになりましたが、「なかったこと」にされている事例が全国にたくさんあることは間違いありません。

その後、富山地裁は「教員が勤務時間外に行った部活動の顧問の業務は職責を全うするために行われたもので、全くの自主的活動であったとはいえない」と指摘しました。安全配慮義務違反を問う裁判であり、顧問強制の違法性が断じられたわけではありませんが、部活は教員が勝手にやっていることではないことを明確にした画期的な判決です。

遺族の方は、「今一度、自分の働き方に疑問を持ってほしい。それは命を削ってまでやらなければいけない仕事なんでしょうか」と呼び掛けています。この方は、私たちや私たちの家族のことを思って呼び掛けてくれています。私たちはそれを無駄にしてはいけないと思います。

多くの方に鳥居裁判も知ってほしいと思います。行政側が一度決定したことを覆すのは、どれほど大変かということが分かります。鳥居先生のたたかいを生かすためにも、私たちの人権を、私たち自身が学び、守っていくことが大切です。

鳥居裁判
愛知の鳥居先生は2002年、部活を大きな原因とする過労から脳出血で倒れました。一命は取り留めましたが、重度の後遺症が残りました。地方公務員災害補償基金が公務災害と認めなかったため、最高裁まで争い、2015年、12年半の時を経て、公務災害が認められました。

2つの報道から考える

(雪崩事故)生徒を事故死させた場合は国賠法適用

  • 部活は職務だが、命令はしない(明確に命令すると法令違反)
  • 生徒の事故死の責任は顧問にある(藤岡のハンマー投げ事故では、顧問は書類送検・不起訴)
  • 責任は顧問にあるが、賠償は自治体が行う(『職務』なので国賠法適用)

(滑川過労死)教員が過労死した場合は自己責任

  • 命令していないのに勝手にやり過ぎた
  • 命じていないのだから、使用者側に責任はない
  • でも、「部活をしない」という選択肢は与えない

今回の滑川判決で、「命令していないのに勝手にやり過ぎた」「命じていないのだから、使用者側に責任はない」とされてきたことが否定されました。しかし、だからといって、学校現場の現実が変わるわけではありません。

部活は、法的には設置するもしないも、どんな運営をするのかも、学校ごとの「自由」です。しかし、法的には「自由」なはずなのに、実際には空気の支配(具体的なパワハラによる場合もある)によって「やらない自由」はありません。生徒の死亡事故が起こっても、教員の過労死が起こっても、抜本的な改革は行われず、元の「空気」に戻っていくことが繰り返されてきました。

現実を変えることができるのは、現実の行動だけです。ほんの数年前までは、部活は無条件に「すばらしいもの」とされていてましたが、今は「必ずしも、すばらしいことばかりではない」という世論になりつつあります。それは遺族の方を筆頭に、「おかしい」と思った人たちが現実に声をあげてきたからです。

しかし現場では、疑問を感じていても声をあげる教職員は稀です。学校は何でも上意下達と空気で決まり、「声をあげられる空気」ではないからです。声をあげるくらいなら教師を辞めるという方もいます。

では、「声をあげられる空気」を作るためにはどうすればよいのでしょう。逆説的ですが「声をあげること」しかありません。声をあげないから、声をあげられない空気になっていったのです。

部活は今が変革期です。ぜひ、自身の勤務校で率直な話し合いを提起してみてください。そしてその前に、組合に入っておくことをオススメします。

人間として、何もせず、何も言わず、不正に立ち向かわず、抑圧に抗議せず、また、自分たちにとってのよい社会、よい生活を追い求めずにいることは、不可能なのです。

ネルソン・マンデラ

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