「上野三碑」の話

西川圭一(元高崎市教組)

上野三碑① 多胡碑

「昔を語る多胡の古碑」あちこちと寄り道をして、戻ってきました。

第一回で多胡碑はすごい文化財なのですとふれておきましたが我が上州にはすばらしい物がたくさんあります。

多胡碑のすごさその1

多胡碑のすごさその一、「日本三古碑」のひとつ。「上野」どころか全日本選手権ベスト3です。その三つとは、多賀城碑、那須国造碑、そして多胡碑をいいいます。

まず、那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ・栃木県)飛鳥時代の700年建立は、国造であった父の事績を息子が顕彰して建てた碑。

多賀城碑(宮城県)は、奈良平城京の時代の762年蝦夷支配の為に設置された軍事拠点について記した碑。

そして、多胡碑ですが、711年(和銅4年)のこと。

多胡碑のすごさその2

古事記・日本書紀に次ぐ歴史書「続日本紀」にこのような一文が見られます。『上野国甘良(かんら)郡の織裳(おりも)・韓級(からしな)・矢田(やだ)・大家(おおやけ)、緑野郡の武美(むみ)、片岡郡の山等(やまな)の六郷を割いて、別に多胡郡を置く』と、これがまさに多胡碑の碑文と内容が一致するのです。当時の一郷は五〇戸とあり、碑文中の「三百戸」ともぴたり付合します。紙に書かれた文献と石碑が同一のことを伝えているなんてことはめったにありません。これが二つめのすごいところです。

多胡碑のすごさその3

さらに碑文にはあの有名な藤原鎌足の息子の不比等の名前も登場し、近郷から割いた三百戸を新たに郡と成すという律令体制の広がりが遠くこの地にまで確実におよんでいたことの証で、三つめ。

多胡碑のすごさその4

碑文の文字は、一行13文字から14文字で全6行のゆったりとした楷書体で、遠く中国は六朝時代・北魏の山東省の山中に残る石刻文字とよく似た見事な物なのです。清の時代に編纂された「字典・楷法溯源(かいほうそげん)(あまたの文献から優れた文字を集めた書物)にも「日本国・多胡碑」として39字が蒐集されるほどで、書道史の上でも第一級品といえます。これが四つめ。

国内でも江戸時代頃すでに貴重な文化財として知られ、明治になって初代県令楫取素彦はその保護に乗り出すと共に「深草のうちに埋もれし石文の世にめつらるゝ時は来にけり」と歌に詠んでいます。(この歌碑は、現在も多胡碑の直ぐ前に建っています。)終戦直後には、上陸してくる進駐軍に破壊接収されてしまうことを恐れて地元の人々が一時桑畑の中に埋めたほどです。実際にはそんな心配は無用でした。

上野三碑② 山上碑

さて、山上碑(やまのうえひ)は、681年建立。西山名駅の北、山名団地の西裏にひっそりと。三碑の中では一番古いというか、実は日本三古碑のどれよりも古くダントツ一位。我が国の石碑中最古なんです。これは凄いでしょ。(実は、646年というもっと古い石碑が京都の宇治橋の袂にあったのですがいつの頃か行方不明となり江戸時代の1791年に上部の三分の一だけが河畔から発見されたのですが何せ三分の一しか残っていない。完全な形で残る山上碑が日本最古の石碑なんです。)

内容は、放光寺の僧・長利が亡き母の為に建てた供養塔、仏教が遠くこの地までもう伝わっていたことを示すと共に日本語の語順に漢字が並べてある石碑として大変貴重です。

上野三碑③ 金井澤碑

三つ目、金井澤碑、726年(神亀3年)。城山団地の東側の入り口の脇に。だるまさんのような小振りな丸い自然石に一族の結束を示し、女性の名前がいくつも刻まれている点が特に珍しく、また、文中に「群馬」の2文字が見えますが石造物・紙・木いずれを見ても最古の用例なのです。凄いでしょ。

現在、「上野三碑」ぐるり周遊無料タクシーが一日8往復運行しています。上信電鉄山名駅前や多胡橋近く多胡碑のある記念館駐車場などにマイカーをおいて、三碑を巡るのもおすすめですよ。

日本三大うどん

ところで日本三大ラーメンは何だかよく知りませんが、「日本三大うどん」と言えば、讃岐うどん(香川)に稲庭うどん(秋田)そして水沢うどん!「はなまる」やら「丸亀」などと全国チェーンもあり、香川県内あちこちにうどん屋のある讃岐とは対照的に、「水沢うどん」を名乗れるのは、水澤寺門前の「うどん街道」沿いに並ぶ13軒のみ。親父の葬儀の時に引き物に葬儀屋が用意してくれたうどんには小さく「水沢風(ふう)うどん」の文字がありました。

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