「くるまのこおり」の話

西川圭一(元高崎市教組)

よき漢字2文字に!

第2話で、かつて「上毛野国(かみつけぬのくに)」と書いていたのが「上野国(かみつけのくに)」と「毛」がぬけてしまった話をしましたが、これを「好字二字令」と言います。713年(和銅6年)諸国の郡(評)、郷(里)などの名を良き漢字2文字に統一せよとのお触れでした。前にも書きましたが、諸国に「風土記」を書かせ、「国分寺」を建てさせ、「税」を都まで運ばせようという中央集権国家の形成の過程では必要なことだったのです。

607年、小野妹子を隋の都に派遣して以来ほぼ300年にわたって中国をお手本にしてきた日本ですから「洛陽」「長安」など良い意味を持つ漢字2文字の中国式に倣ったのです。実は、国名についてはこれよりも先行してどんどん二字化されていたようで、現に「多胡碑」にも発令の713年より2年前の711年の出来事なのに「上野国」と刻されています。後には山や川の名もほぼ2字になっていきます。

え、ハットリも!?

ここでいくつかの例をご紹介すると、粟の産地だったので「粟の国」だったのが「阿波(あわ)」に、とにかく木がいっぱいの国を「木の国」と呼んでいたのを無理矢理「紀伊(きい)」に。港があったので「泉の国」と呼んでいたものは、日本を表す佳字「和」を加えて「和泉(いずみ)」に、同じく「津の国」は「摂津(つ)」に。どちらも加えた1字は発音しませんでした。(後に「摂津」は「せっつ」と読むようになりましたが・・・)

災いを連想させる、まさに「火の国」は、火山灰に覆われた大地を豊かで肥沃な国土にと願いを込めたのでしょうか「肥」の字を当てて「肥前」「肥後」になりました。古代の大国の一つ「吉備道国(きびのみちのくに)」は「備後」「備中」「備前」「美作」の4つの国に分かれることになりました。(もちろん都に近い方が「前」、違和感を抱くのが「越後」、北が下越で中越はさんで南が上越)

当時の旧国名や郡名・郷名は、太古からの大和言葉に漢字を当てたものでしたが万葉仮名というのは一定していないものなので様々な表記がされていました。たとえば今の埼玉・東京を指す「武蔵」ですが、《無邪志・无射志・牟射志・牟佐志・胸刺》とさまざまに書き表していたのです・・・これじゃあ事務方は確かに大変。

すっかり変わってしまったものとしては、「近淡海(ちかつあわうみ)」が「近江(おうみ)」に、「遠淡海(とおつあわうみ)」が「遠江(とおとうみ)」(静岡西部)になりました。

50戸を一単位としたという「郷(さと)」の名になるとあちこちに、「中郷」だったのが「那珂郷」、「北」だったのが「喜多郷」、「上」を「賀美郷」に、また地域の職業集団からついたと思える「機織部(はたおりべ)」も「服部(はとりべ)」へ(後に「はっとり」と読むように・・・)

有名なところでは、奈良の「明日香」を「飛鳥」2文字に!これは、ご存じの通り万葉集の歌にある枕詞「・・・飛ぶ鳥の明日香の里の・・・」からといわれています。

くるまのこおり

さて、最後に「金井沢碑」にも登場した「群馬郡」の話。

もうお気づきでしょうがこれは、かつて「車郡(くるまのこおり)」と1文字であった(上毛野国と深い関わりのある車持氏に由来)を実にこじつけで「群馬郡(くるまのこおり)」という2字にしたのです。当時の王権の東国経営にとって欠かせない貴重な馬をたくさん産出した地域だったのです。古墳から出土する馬具・埴輪がよく物語っていますね。さらに、北牧・南牧・上牧・下牧・有馬・荒牧・馬庭といった地名などなど・・・渡来人の知識と技術で「官牧」から優れた献上馬が都へも送られていたと言うことで、まさに「馬の群れたる里」だったのです。もちろん読みは「くるま」のまま。金井沢碑の碑文も「群馬郡」と書いてありますが「くるまのこおり」です。「群馬」を「ぐんま」と発音するようになるのは明治になって廃藩置県で正式に「群馬県」となってからでしょう。

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