教育基本法を知ろう③
教基法改悪は憲法改悪への地ならし
憲法は日本政府に「戦争すること」と「軍隊をもつこと」を禁じています。憲法とは、国民が国家を縛るものです。もう二度と政府の暴走によって戦争を起こさせないために憲法があります。
そして教育基本法は、自分の頭で考え、政府の暴走を許さない国民を育てるために制定されました。つまり、日本国憲法と教育基本法は戦争を起こさせないための両輪です。
しかし大日本帝国に憧憬を抱き、戦後教育を憎む人たちもいます。
「戦後の教育が日本人としての誇りを奪った!」
「明治時代の強い日本を取り戻したい!」
そんな風に考える人たちが様々な運動を起こします。
公文書に元号が使われるのは彼らの元号法制化運動の成果です(元号とは「政治的支配者が時間も支配する」という考えから生まれたものであり、今も使っているのは日本だけです)。みどりの日が昭和の日になったのも彼らの運動によるものであり、文化の日を明治の日にしようという運動も続けられています。
彼らの目標は憲法改悪です。そのためにまず、平和主義の両輪である教育基本法の改悪を目指しました。日本会議(1997年、「日本を守る国民会議」と「日本を守る会」が合流してできた緩やかな連合体)を代表とする右派は教育基本法への「愛国心」明記を目指し、運動を強めていきます。
2000年 憲法調査会発足・教育改革国民会議発足
2001年 文科省「教育振興基本計画の策定」と「新しい時代にふさわしい教育基本法の在り方」について諮問
2003年 中教審「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について(答申)」提出憲法と教育基本法の「改定」への動きが、ほぼ同時に進んでいることが分かる。
参考「徹底検証 日本の右傾化」塚田穂高 編著
この答申を受けて、2004年の与党中間報告では、自民党が主張する「国を愛する心」と、公明党が主張する「国を大切にする心」が両論併記されました。
しかし、2005年の総選挙で自民党が圧勝したことで公明党の発言力は弱まり、2006年には「我が国と郷土を愛する」という表現で与党案がまとまります。同年、小泉内閣が自民党総裁任期満了で総辞職し、日本会議と強く結びつく安倍内閣(自称「美しい国づくり内閣」)が誕生。そして、教育基本法が改悪されました。
(ちなみにこの時の法務大臣だった長勢甚遠氏は「国民主権、基本的人権、平和主義、この三つを無くさなければ、本当の自立自主憲法に成らない」と発言している)
個人がどんな考えをもつのかは、憲法で保障された自由です。同じような考え方をもった人たち同士で集まって、政治に働きかけていくことも憲法で保障された権利です。つまり彼らは、民主主義の手続きを用いた地道な社会運動によって、非民主的な社会(明治から敗戦までの社会)に戻していくための要求を1つずつ実現させてきたと言えます。
2006教育基本法
日本会議はこの教育基本法改悪を絶賛します。
平成18年12月、国民待望の中59年ぶりに教育基本法が全面改正されました。改正された教育基本法には、道徳心、公共心、愛国心など日本人の心を育む教育目標が掲げられ、これにより混乱を続けてきた戦後教育を改革する大きな手掛かりが作られました。
教育の目標に「豊かな情操や道徳心」「公共の精神」「伝統と文化の尊重」「愛国心」などの育成が掲げられました。
宗教に関する教養を尊重することが明記され、従来は敬遠されがちだった宗教教育の重要性が示されました。
日本会議HPより
1947年制定の教育基本法は、子どもたち一人一人の発達を保障し、個人の価値を尊ぶ教育を目指しました。そして第10条において「不当な支配に服することなく~」と、教育と教育行政を明確に区別しています。国家が教育を通じて子どもたちを不当に支配し、戦争に突き進んでいった過ちを繰り返さないためです。
しかし2006年の改悪版では、『教育の目標』が新設され、「公共の精神」「道徳心」「愛国心」を強調します。目指すべき子どもの姿を国家が規定しているのです。また家庭教育や幼児教育にも言及し、家庭への行政の介入が強化されています。
そして16条では、教育と教育行政を一体化させ、教育の、権力からの独立を制限しています。婉曲な表現ですが、よく読むと、国家による教育への介入を合法化しようとしていることが分かります。
道徳教科化
法律が成立した次の日から、社会が大きく変わるわけではありません。しかし、法律を基に様々な規則が作られたり、通知が出されたりするので、教育現場もじわじわと変わってきました。その最たるものが道徳教科化です。
道徳は、その成立過程を見れば修身の復活であることは明らかです。歴史的背景を知らなくても、人間の内心を『誰かが決めた正解』に誘導することを「気持ち悪い」と感じ、副読本を使わない先生も多くいました。
第二次安倍政権は、「いじめが起こるのは道徳教育が足りないせいだ」と強引にこじつけ、道徳教科化を強行します。小学校では2018年度、中学校では2019年度から、『特別の教科 道徳』が設置され、副読本は教科書に昇格(?)しました。
実は、第一次安倍政権でも道徳教科化を目指していましたが、この時は中教審が「道徳は教科化になじまない」と反対して見送られました。しかし教育基本法改悪から10年を経て、政権の念願通り道徳は教科化されました。
当時は「道徳心の押し付け」に反対世論が沸き起こり、多くの報道がなされましたが、最近はほとんど話題にもあがりません。異常が日常化してしまいました。週一回キッチリ道徳の教科書を教える学校が増えています。
歴史と法を学ぶ
本能的に、道徳心の押し付けを「気持ち悪い」と感じる先生はたくさんいます。しかし、歴史的背景や法令を知らずに「何となく嫌だ」というだけでは説得力のある反論はできません。反論できないから、マニュアルが示されると、何となくモヤモヤしながらもその通りにする人が多いと思います。マニュアル通りにやっておけば、怒られることはありません。
しかし、それは教育のプロとして誠実な態度と言えるのでしょうか?
モヤモヤを感じたときは、自ら調べ、批判的に思考し、周囲の人と意見を交わしてみませんか? 意外と同じようなモヤモヤを感じている人もいるものです。
「指導要領は間違っているからすべて無視しろ!」と言っているわけではありません。しかし、「指導要領は無謬である。なぜなら政府が作ったものだから」と信じて疑わない態度は、「政府は無謬である」と信じて疑わなかった戦前・戦中の教師の失敗を繰り返すことにつながります。本当の学問は疑うことから始まるのです。
ぎんはここへきて初めて学問というものが単に知るということでなく、疑うということから始まることを知った。
『花埋み』渡辺淳一
政治には関わりたくない
誰も、政治になんて関わりたくないですよね。でも残念ながら、政治の方は私たちに関わってきます。
教育基本法は政治によって変えられました。そして、特定の価値観に沿って捻じ曲げられた法律の下で指導要領が改訂されます。それは、私たちの教育活動に影響します。こちらは政治に関わりたくなくても、政治は私たちに関わってくるのです。道徳の教科書のパン屋が和菓子屋に変更されたという出来事が象徴的です。
教育基本法が改悪されるときに、もっと大きな反対運動を起こせていれば、今のような事態にはなっていなかったかもしれません。「おかしいな…」と思いつつも大多数の人が沈黙していると、少数の、声の大きな人の意見が通ってしまいます。そして政治の場で法として定められたことは、反対していた人に対しても、沈黙していた人に対しても、強制力をもちます。
「大多数の人が沈黙していると、少数の、声の大きな人の意見が通る」
似たようなことが職員会議でも起こっていませんか?
「おかしいな…」と思っても、「自分はよく分からないから…」と沈黙していることは、一見中立に見えるかもしれません。しかし、沈黙は声の大きな側に与することになります(もちろん、「何でもかんでも反対せよ」というのではありません。自分で納得した上で賛成するのはまったく問題ありません)。
「おかしいな…」と思ったとき、声をあげるのは勇気が要りますよね。そんなとき私は、キング牧師の言葉を思い出して、心を奮い立たせます。
人は「発言する」ことにのみならず、「発言しない」ということにも責任を持たなければならない。
Martin Luther King Jr.